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僕の蕎麦屋が出来るまで③【赤いレンガ壁】

親友・辰野の一言に背中を押されて動き出した僕は、三島の街を歩き回った。

蕎麦屋をやろうと決めてから出店させるにあたり、三島か修善寺だなぁと考えた。生まれ育った場所は伊豆韮山でも商売をやるにあたっては、とても集客を見込めるだけの人口は居ない。ある程度広域から人を集められる地の方が良かろう。そうして選んだのは三島。修善寺という街にも魅力はあるのだが、観光客狙いに特化してしまうキライがある。僕がやりたいのはよそ行きではなく普段着の店。近所の常連さんもぷらっとやって来て一杯やって蕎麦で〆て、肩肘張らずにでもチョット格好つけるような感じの店にしたかった。

高校生の頃、街へ出るといえば三島か沼津で、後者の方がその頃は商業の中心であって町の規模も大きい。それに比べて三島の街はこじんまりとしつつも親しみやすさがあったし、学区内でもあることから身近だった。久しぶりに歩いた冬の三島は水量の少ないせせらぎや冬枯れたケヤキも相まって、とても暗く感じた。

2005年といえどバブル崩壊の煽りを受けたままに商店街は廃れ始めていて、かつて《ヤオハン》という僕ら田舎者にとってはデパートだった跡地に、21階建の高層商業複合マンションが出来るという話題が唯一希望の光だった。しかしながら、完成した際にもごく普通の大手食品スーパー以外めぼしいものはなく、展望台が無いことはおろか、住民しか5階より上には上がれないことから、市内全域からびっくりするほどの人だかりだった以上に、落胆のため息の方が多く聴こえた。

その麓にある*銀座通りを歩いて、市内では有名な焼肉の名店《東海苑》の手前に一軒の空き物件を見つけた。スナック風の1階と隣り合うドアは2階の住居部分だろうか。自身の店を開くのに合わせ、その頃5年目を迎えようとしていた妻の自然療法の店《ひむ香》も移転させようと思っていたので、1・2階共に借りることができるのならば好都合だ。早速、不動産屋に問い合わせて中を見せてもらうことにした。

印象に残ったのは奥のレンガ壁だった。随分と放置された場末のスナックが廃墟と化している感じだったが、僕にはそれが光って見えた。眺めた瞬間にインテリアが浮かんだ。ここにしよう。話はトントン拍子に進み、2階の居住部分の一部屋で妻の店を営業することや、雰囲気に合うよう改装することも許可を得た。

2005年2月。改装工事を全て自分で手掛けてやることを決め、作業に取り掛かった。詳細については紙面を改めて記事にしようと思うが、その際に磨き込んで蘇えったレンガ壁は、想像以上に素晴らしいものだった。この建物が竣工された1974年(僕が産まれた2年後)からずっとこの場所にあったこの壁。レンガ風の壁紙やブリックタイルのハリボテではなく、本物の煉瓦を積み上げて作ったインテリアなぞ、今時の賃貸物件の店舗ではあり得ない重厚感は、歴史すら感じさせた。聞いた限り5件のスナックが代わる代わるに入居したようで、その30年(当時)の間、歌も音楽も、酒も煙草も、そして男と女の酸いも甘いも、ずっとじっとその場所で眺めてきたこのレンガ壁。

あれから16年(2021年現在)。今もレンガ壁は変わらずにそこにある。そして、蕎麦宗の歴史を見つめ今もなお輝きを増している、店にとってはなくてはならないアイコンだ。来て、見て、是非ぜひ触れてみて欲しいなぁと思います。

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*銀座通り…実際には銀座があったわけでなく、突き当たりに銀座会館という映画館があったためにこの名がついたらしい

#レンガ #三島 #賃貸 #蕎麦宗 #スナック


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