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0円さん、ピルをやめる 【年間交際費0円さんの今日 #7】

#7 0円さん、ピルをやめる


婦人科クリニックの待ち時間はとても長い。
周囲を見わたすと妊婦であろうお腹の膨らんだ女性もちらほら見えるが、婦人科に通う理由はほんとうに人それぞれだ。

私といえば、長年飲み続けた「ピル」を辞めようと決意し、今日ここに来ている。
これから長時間お世話になるであろう待合室のソファーに腰を下ろし、番号が呼ばれるそのときを待っているのだ。


自己肯定感の低さの象徴


ピルを飲みはじめたきっかけは、遠距離恋愛だった。

私は若い頃から生理が重く、PMS(月経前症候群)もひどかった。
その改善方法を調べている中で、ピル(経口避妊薬・低用量ピル)を飲むという選択肢を知ったのだ。
けれど、薬を飲むことや、生理周期をコントロールすることに抵抗があり、結局いつまでも婦人科へ足を運ぶことはなかった。

そんな私が遠距離の彼と交際することになったのは、たしか20代後半の頃だっただろうか。
その頃の私もまた、婚活の頃と同様に心が焦っていた。
彼に嫌われないように、嫌われないように……と、自分を殺して立ち振る舞っていた。

遠距離恋愛の私たちは、頻繁に会うことができず、デートはせいぜい月に1度くらいだった。
その日程も彼に合わせていた私は、あるとき、デートの日と生理の日が重なりそうなことに気がついた。
妙に焦りや不安を感じはじめるようになった私は、頭の中でぐるぐると考え込んだ末、ついに婦人科に通うことを決意した。

婦人科では、生理やPMSが重く耐えられないことを訴えた。すぐにピルを処方してもらえることになった。

でも私の本当の目的は、ピルを使って生理周期をコントロールすることだった。

彼は、ピルを飲むことを要求したり、避妊具をつけないような無責任な男ではなかった。
けれど、もし、月にたった一度しか会えない日にセックスができないことを知った彼が、残念な表情をみせたら? わざわざお金をかけて遠出して、それができないならもういいやと思ったら?
そのことを想像したら怖くてしかたがなかった。
それに万が一、彼が避妊をしない行動にでたとき、私はその場で拒絶する自信が全くなかった。

私にとってのピルは、自己肯定感の低さの象徴だった。


結局その彼とはとっくに別れ、以降、遠距離恋愛をすることもなくなった。
それでも生理にまつわる症状がつらいことには変わり無く、そのまま飲み続けて今日に至る。

だけど、なんだか最近は、こころとからだにいい変化を感じるようになってきている。
ピルを飲んでいるとはいえ、以前よりずっと、生理やPMSの症状が軽減しているように思えるのだ。

それは年齢を重ねてからだのつくりが変わったのかもしれないし、ストレスが減ったことからくるものかもしれない。

もしかしたら、ピルを飲む必要もないのかな……。
そんなふうに思いたった。

「番号札25番の方、診察室へお入りください」

焦燥感に苛まれていたあの頃の表情はもうない。私は背筋をのばして診察室へ向かった。



待ち時間は思いのほか短く、婦人科での診察はあっさり済んだ。

昼食は外でさっと済ますつもりだったけど、時間もあるし買い出しにでも行こう。
そう思った私は、帰りに近所のスーパーへ立ち寄ることにした。

店内に入り、まず目に飛び込んできたのはシリアルの特売コーナーだった。
馴染みのあるその長方形のパッケージが大量に積み重なり、見事なピラミット型になっていた。
そのコーナーに私はつい吸い寄せられ、特売価格を確認した。
一つ、二つ、カゴに入れてみた。三つ目を手に取ったとき、なんだかもやもやとした不安な気持ちに襲われるのを感じた。

憂鬱なとき、気力のないとき、私はよくシリアルで食事を済ませていた。
たくさんストックするということは、それを想定しているということだ。

私は手に持っているシリアルをピラミッドにそっと戻した。
それからカゴの中の二つも、ピラミッドへ戻っていった。

今日はやっぱり自炊にしよう。


きっと大丈夫



玄関を開けるとすぐに、ぎっしりと詰まった買い物袋を両手から降ろした。
今日の分だけではない、数日分の食材や、お弁当用のおかずも購入した。
さっそく昼食の準備にとりかかる。


黙々と自炊をしていると、いろいろなことを頭の中で整理できる。
私はお米をていねいにとぎながら、メッセージアプリを削除してからのある変化を思い出していた。
それは、職場でのランチ女子会に誘われなくなったことだ。

積極的に楽しめない、かといって断ることも難しい、お互いのポジションを確かめ合うためのランチ女子会。
そんな女子会へのお誘いも、メッセージアプリを削除したことで物理的に連絡が届かなくなったのだ。

そして、私と個別に連絡がとれなくなったことについて触れてくる人は誰もいなかった。
周囲はなんとなく空気を読んで、察して、暗黙の了解として、私はランチ女子会から自然離脱した。


食卓には、炊き立ての白米、納豆、焼き魚、味噌汁が並んだ。
こんなにちゃんとした食事を休日の昼から自炊できるなんて……!
そう少しだけ自画自賛して、私は椅子にかけた。いただきます。

炊き立ての白米を一口。
ほかほかの熱とともに、口の中いっぱいにふわっと甘味が広がった。

納豆にはネギを切って入れた。少し薬味を足すだけで、こんなに美味しくなるんだ。

久しぶりにグリルを使って焼いた鮭も、いい具合に仕上がった。


……この数ヶ月で私の生き方は大きく変わった。

婚活は、もうしないことに決めた。

私の心を圧迫していた大量の服を捨てた。

メッセージアプリを退会した。
それにより、なんとなくつながっていた人たちや、かつての親友、母親との縁もなくなった。

母親を、助けない選択をした。


もう誰とも関わらなくていい、何も気にしなくていい。

なんか、自由だなぁ……。

私は味噌汁を一口すすった。

おいしい……。

もう一口。

おいしい。あったかい。
お味噌汁って、こんなにおいしいんだっけ。

味噌汁を一口飲むたびに、おいしさと温かさが口の中に広がっていく。口から喉へ、そしてからだの中へ、私の全身を満たしていった。

おいしいなぁ、うれしいなぁ……。

幸せな気持ちがからだ中に満ちてくる。
それと同時に、じわじわと感情が揺さぶられていく。
自然と目には涙が溢れていた。


「ちょっと距離置きたいんだけど」

ーーそうだよね、私は自分の人生から逃げることばかり考えていたから。

「その服、似合ってるとでも思ってるの?」

ーーそうだね、私は外に着て行く勇気もない服に散財していた。

「彼が仕事終わったみたいだからさぁ、私そろそろ行くわぁ」

ーーかつての親友との最後は、一方的な音信不通になってしまった。

「こっちに迷惑かけないでよ。もう、お母さんはね、楽しいことだけして生きていきたいのぉ」

ーーうん……。


ずっとつらかった。でも、ぜんぶ、もうやめたことだ。

あふれた涙が頬をつたっていく。涙がとまらなくなる。

ああ、なんだ、全然大丈夫。全然さみしくなんかない。

もう周りにはなにもない、誰もいない。
けれど心地いい。満たされてる。
お味噌汁を飲んだだけで、こんなにしあわせな気持ちで満たされている。

きっと大丈夫。一人で大丈夫。

今はまだ、0円さんでいい。

今はまだ、0円さんがいい。




年間交際費0円さんの今日 〜0円さんの憂鬱編〜
#7 0円さん、ピルをやめる

0円さんの憂鬱編 ー 終 ー


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