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「会って、話すこと。」を半分読んで思い出したこと

「会って、話すこと。」という本をいま読んでる(半分くらいまで読んだ)

そしたらふと、子どもの頃の平日夕方車の中で、母親との会話を思い出した。
「地球って一番初めどうやって始まったんかな?」「口から出る言葉って誰からどうやって始まったんかな?」と母親に問いかけてたこと、そういうとき返ってきたのは、優しいとき「どうなんやろわからんな」優しくないとき「そんなん知らんわ」
そんな感じでいつもすぐに会話が終わってたなと。そんなことを車で話してた情景が思い出された




わたしは大人の感覚を持ち始めた中学生高校生くらいから特に、会話への苦手意識がずっとあって、もっと楽しく話したいし盛り上げたいし話題提供したいのに上手くできないもどかしい ってずっと思ってきた。私は話すのが苦手だって自分で自分のアイデンティティにしてた部分がある

それでもそれを課題に感じる度にいろんな記事とか本とかを読んだ(とはいえ本気で解決しようって向き合えたタイミングはない、だらだらと悩んできた)

「日常会話の楽しさは仮説に仮説を重ねることにある」とこの本にもあるように、会話とは意味のないどうでもいいような話をすることだ、という内容をいろんなところで目にする。それに対して、私にはそんな日常会話を楽しむ環境が日常になかったことが、今の自分をつくる一つ要素となるのかもしれないと思った。

自分のパーソナリティを家庭環境のせいにするのはよくないと、そう世間で飛び交う意見を受け止め、やっと最近になってこれまでなかったものを否定するではなくあったものに感謝できるようになった。これまでになかったものはこれから自分で得ていくために動いていこうと思えるようになった。

だけど事実として知って、活かす必要はあると思う。そこで会話力という点でいうと、子どもの頃から疑問に思ったことを問いたときや質問や話題を投げかけたとき、「どうなんやろわからんな」「そんなん知らんわ」で会話が終わる世界で生きていたことによって、意味のないこと必要のないことは話さないというある種学びを得ていたのかもしれない。

(中学高校以降も、いろんなことの感覚がとにかく合わず、話すとぶつかってしまうからという理由で業務連絡以外はできるだけ話さないことで自分を守っていた。だから終始「家庭での日常会話を楽しむ」ということは難しかったため、必要なことしか話さないという感覚が自分に身についていることは不自然じゃない)

ただ、私が会話が苦手なのは先天的な性格のせいもあるし全部の要因がそれではないから家族を責めることはしたくないけど、一つの大きな要素ではあると思うから、そんな過去の環境をふまえた現状に対しての理解として捉えていたい。

理想は、そんなどうでもいいことを自然と会話として楽しめる環境で育つことができたら、もっとナチュラルに人との会話を楽しめたかもしれないなあと思ったりはするけど、、、!

今のわたしにできるのは、もしかしたら自分が将来子どもと新しく家庭をつくることになったとき、私が子どもの頃に家族としたかったような会話を私と私の子どもが楽しめるように!
過去からの今を理解して、未来を作るために行動すること。トライアンドエラーしていくそんな今を楽しむことに限ると、思っていたい!!

未来に幸あれ🥺✨

◎END◎



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