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【感想】ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3 インフィニティサーガをも彩る最高の最終回

今年2度目の映画鑑賞をしてきた。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3

素直な邦題に感謝である。

今回は前々から言われていた通りシリーズの「最終作」。
監督がMCUから離れDCEUに注力すること、ドラッグス役のデイヴ・バウティスタやガモーラ役のゾーイ・サルダナもMCUからの卒業を明確にしたことが発表されているため、少なくとも現在のスタッフ・キャスト陣としては明らかなる“最後”である。

そもそも私がガーディアンズと初めて出会ったのは“アベンジャーズ インフィニティ・ウォー”(以下“IW”)という体たらくである。
単独作の盛り上がりや評判のよさは肌で感じつつも、スパイダーマン推しであった私はなかなか観に行くこともなかったし、予習という形で彼らのシリーズをBlu-rayなどで鑑賞することもなかった。

しかしIWで描かれる彼らには魅了された。この作品ではクロスオーバー向けに一人一人の性格が若干単純にチューンナップされているがしかし、彼らの背景やこれまでの生きざまを改めて鑑賞したい、そう思わせるパワーが画面からヒシヒシと伝わってきたのだ。彼らのノリや軽妙な会話に心から乗れない自分が悔しかったものだ。
(さらに言えば、やはりガモーラ・ネビュラ・サノスあたりのバックボーンを理解し、より物語にのめり込むには視聴はしておくべきであった)

翌年に控える“アベンジャーズ  エンドゲーム”(以下“EG”)の予習も兼ねてシリーズ2作をレンタル及びDisney+で周回して、この作品を映画館でリアルタイム鑑賞に赴かなかったことを激しく後悔した。

というわけで6年ぶりの最新作は絶対に逃したくないと、「2023年観に行きたい映画リスト」ではかなり上の方にいた作品である。
4月はおかげさまでかなり忙しく平日に時間を取って映画を観ることもできなかったため、“アントマン&ワスプ:クアントマニア”、“シン・仮面ライダー”、公開したばかりだが“劇場版『名探偵コナン 黒鉄の魚影』”や“ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー”を全て諦め、GW中は本作一本に絞り時間の確保に努めた。

以下、雑多であるが感想など示そうと思う。
ネタバレ配慮はなしである。

結論から言えば、時間確保に努めた甲斐はあった。
素晴らしい最終回であった。“完結編”ではなく、私は敢えて“最終回”と呼びたい。

1・2・IW・EG・ホリデースペシャルと、割と順を追ってスポットを当ててきたガーディアンズメンバー、今回は満を持してロケットである。

元々前振りはされていたが、改めて描かれるロケットの過去は凄惨で壮絶である。
人間だったところを無理やり改造されてアライグマになったロケット…ではなく、元々はただのアライグマだった彼は、改造により知性と、そして表現力を植え付けられる。
それまでの過程、同じく改造された動物たちとの交流、そして彼が宇宙に出るまで。同時に描かれる今作のメインヴィラン、ハイ・エボリューショナリーの悪辣さ。
それらを通して表現される「家族・仲間の絆」と「はぐれ者への愛情」。そして今回は、各々のパーソナルな考え方や選択肢といった「個人」というものにもスポットが当たっている。

家族やチームというモノが最終的に「個人」に帰結する様子は素晴らしい。
確かに、家族というモノは往々にしてバラバラになるものだ。いつまでもずっとはいられない。
むしろ個としての独立を前提として、家族という集団はあるのだと私は思う。

クイルは血の繋がった祖父に会いに故郷に帰ってみることを決める。
マンティスは今までの、どこか誰かしらに依存していた人生と決別し自分一人でどこまで生きていけるかを試してみたくなった。
ロケットは今度は自分がリーダーとして新しいメンバーたちをまとめ上げる。
別世界のガモーラだって、いきなり放り込まれた別時間軸の世界で強く、強かに生きて仲間を作っていた。

かと言って家族や仲間とずっと一緒にいるのはおかしいというわけでもない。離れ難い、離れられない家族だっている。独立は強制ではない。

ドラッグスは父親としての役割を得てノーウェアに残るし、ネビュラもかけがえのない存在と土地を得てノーウェアの再建と発展のリーダーとしての道を選んだ。

そう、彼らは崩壊したわけでも別れたわけでもない。今いる場所からの逃亡を選んだわけでもない。

最終回として期待するものやシーンを余すことなく描きながら伝えるべきことはきっちり伝えきるこのバランス感覚。
家族や仲間からの独立を描き切りながら、それでいて、これまでの積み重ねの否定は決してしない。

ロケットを救うために一瞬の逡巡や躊躇もなくノーウェアを飛び立つガーディアンズメンバーから始まり、自然と解散へと帰結する今回のストーリーテリングは正に素晴らしい「最終回」であったと感じる。
彼らの旅路や冒険は完結はしていないし、引退や隠居をしたわけではないが、我々が追いかけるのはここまで。あとはそれぞれの別の話になるという旅立ちを描いた最終回。

最後のボス、ハイ・エボリューショナリーの悪役外道っぷりはこれまでのMCU映画の中でもトップクラスだ。
個人的には大ボスであったサノスや前作のエゴすらも大きく超える。
ロケットの過去を描かれると同時に掘り下げられる彼の所業は筆舌に尽くし難く、「倒されるべき悪役」として申し分ない。

そんな彼はあらゆる実験や研究を繰り返しながら何を求めていたのか。「完璧な存在」を求めていたのか。

否。

「ありのままを否定したんだ」

そういってロケットは自分の「父」と決着をつけた。
完璧を求めておこなってきた様々な非道なこと、その中でも一番の罪が「ありのままを否定したこと」であると、この物語は突きつけてきた。

思いの外しっかりと言語化してきたな、というきらいはあるが、逆説としては当然「ありのままを否定しない」ということなわけで、2の「あいつはお前の父親ではあるが親父ではなかった」と並ぶ名言である。

吹き替え版は観ていないし英語力も皆無なため実際のニュアンスなどは違うのかもしれないが、しかしこの表現は見事だったと思う。

「寛容になる」でも「受け入れる」でもない。

「否定しない」。

銀河のはぐれもの集団で結成したガーディアンズ・オブ・ギャラクシー、彼らが紡いできた物語の落とし所としてこれ以上のものはない。

ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結”なども含めてジェームズ・ガン監督が模索し続けてきたものの、ひとつの結論でもあるように思う。

「ありのままを否定しない」。

ガーディアンズたちはアダムを否定することなくやり直しの機会を与え、囚われた子供達や動物たちを何の衒いもなくそのまま助け出した。

彼ら自身、ありのままで生きることができなかった日々があるのに。

故郷から攫われたり、滅ぼされたり、身体を改造され続けたり、復讐の道に進まざるを得なかったり、誰かの支配下に置かれたり、望まざる知性を植え付けられたり。

ありのままで生きられなかった奴らが、他者のありのままを守るために奔走する。

そこに私は良いしれぬ感動を覚えた。

これまでガーディアンズメンバーがそうしてきたような、母親と創造主からの自立が描かれたアダム。2のラストから言えばメインヴィランだと思っていた彼は、言うなれば今回の成長枠と言えるキャラクターであった。
恒例(?)の生身宇宙シーンにおいてクイルを助けた彼のシーンは、彼自身の成長とともに一作目から積み重ねてきたガーディアンズの所業がきっちりと大爆発したシーンで、そこからラストまでは涙を禁じ得なかった。

当然気になるところはある。

例えば今回はジェームズ・ガン監督の露悪趣味、ゴア描写の発露がこの作品、というかMCUとしては悪い意味で強く出過ぎていた気がする。
エボリューショナリーの悪辣さを強調するための一端、と感じられなくなるくらいには無駄にそういうシーンが多いなと思わざるを得なかった。
この辺りは元々そのつもりで観ていたスーサイドスクワッド辺りなら良いのだが、ジェームズ・ガン監督作品としてではなく、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーシリーズ、引いてはいつものMCUの一作として鑑賞に来た観客は面食らうのではないだろうか。
事実私のパートナーは元々そういった描写やジャンルに明るくないこともあり、過去2作よりも演出面で苦手な部分が増えていたと話していた。
特に今回はストーリーや展開自体はそれなりに王道だったため、結果としてはかなり悪目立ちしている。若干そちら方面のバランス感覚は崩していたか、もしくはMCU・Disneyとの明確な別れを示すためにわざと入れ込んでいたか。
いずれにせよガーディアンズシリーズとしてみたら違和感のある悪趣味さだな、と感じるシーンは私にも多々あった。

あとは、ハイ・エボリューショナリー自身の掘り下げが足りなかったかなというところ。
彼の悪辣さ、思想の歪さは散々描写されてきたが、結局のところ彼の最終的な目的が何なのか、そして彼がなぜそうなったかが全く分からなかった。
なぜ他者のありのままを否定してまで完璧な世界を求めたのか、非道な実験に没頭し世界や種を作りそして滅ぼし続けたのか、なぜ創造主であることを求めこだわってきたのか。その先に何を目指していたのか。
終盤での「神などいない、だから私がやっているのだ」という言葉にその背景の一端は感じ取れるが、やはり不十分だと思う。
結局エボリューショナリー自身が理由も背景もない「そういう化物」としか感じる事が出来なかった。哀しき過去などはいらないのだが、せめて何がしたかったのかはもう少し明確にしてほしかったところだ。

その他、まぁやはり一つ一つの物事の解決策が強引だな、というところはちょこちょこある。特にオルゴ・コープへの侵入から脱出への一連の流れは、キャラクターの魅力や特性に頼りすぎているきらいはある。


とはいえ、それらを凌駕するほどのストーリーテリング・展開・アクションシーンなど盛りだくさんで、上述した落とし所のキレイさと感動、エモーショナルさで、総合的にはもう傑作と断じざるを得ない。

コメディも過不足なくいいところで差し込まれていてこの辺りのバランスも本当に素晴らしい。
通信シーンなんて、恐らくそうなっているだろうと我々が分かっている期待通りの流れなのにきっちり笑わせてくれるのだからすごい。

アクションシーンの進化もまた素晴らしい。
疑似的な長回しで一人一人にスポットを当てた格好良さ、スタイリッシュさ。
この引き出しがMCUとガン監督、どちらから引き出されたもの中は分からないが、また新たな広がりを感じてこちらも今後に期待せざるを得ない。

ガモーラとクイルの関係性をイチから構築しようとしたり注力しすぎたりしないところも良かった。このガモーラはあくまでも別人、彼女には彼女の選択や人生がまた新しくある。でもやっぱり根っこは我々の知っているガモーラだった。観客にも、そして物語中のクイルにも自然にそれを伝えてくれた筆致の精密さと、そして物語のテーマと一貫したその扱いが良い。

また、感想としてはちょっと違うところにあるが、とにかく「誰も死ななくてよかった!!」というところも大きい。
完結編と銘打たれている以上、そしてこのメンバーによる続編が有り得ない以上、メンバーの瓦解や死亡はあってもおかしくないと思って鑑賞に臨んだが(特にロケット)そんな事もなくとにかく安心した。
何よりそういったメンバーの死や強制的な別れを安易に使わずに感動させてくれる手腕。丁寧に積み重ねられてきたシリーズとしての凄さ、頑強さ。
そして今後のクロスオーバー作品にはチラチラと顔出しだけでもしてくれそうな新生ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーと、カムバックを明確に示してくれた伝説のスターロード。

本当の家族と過ごすことができずありのままで生きられなかった奴らが集まり家族となり、他者のありのままを守ってまた一人一人生きていくことを決意する」。

同じ「一人(独り)」・「個人」であっても、それぞれの物語スタート時とは全く違う。
1作目からクロスオーバー作品も経て物語は綺麗に循環した。そして最後に流れるCome And Get Your Love。

気が利きすぎている。出来すぎだ。

ちょっと余りにもキレイに着地させすぎてない?なんて捻くれ者の私は若干思ってしまったりもするが、それでもこの作品およびシリーズが最後までキープし続けた圧倒的な「面白さ」には何も言えない。

今後も世界中から愛され続けるだろうガーディアンズ・オブ・ギャラクシー。
彼らの最終回をきっちりこの目でみる事が出来て幸せだ。

フェーズ5の嚆矢でありながら、インフィニティサーガの実質的な終結とも言える今作。
彼らもまた、次代にバトンを繋いだ。

取り敢えずアントマンの配信を待ち、予告も解禁されたマーベルズに備えることとしよう。

今後のガーディアンズの活躍に想いを馳せながら。

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