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息子が産まれた日

先日、息子が1歳を迎えた。

まだまだ赤ん坊色の方が強い本人にとってはいつもと何ら変わらないただの1日だったろうが、親である我々にとってはとても大事な日である。

自分たちも親として1歳。
主役をベビーカーに差し置いて、パートナーとちょっと豪華な焼肉ランチを食べてこそっと祝ったりした。



およそ一年前のあの日のことはなんやかんやで今も思い出す。

前日の朝から兆候を得てパートナーを病院に連れて行った。
そのまま入院となったが子宮口は開ききらず、久々にその日の夜は一人で寝た。
翌日、何かを感じたのか普段なら絶対に有りえない朝6:00に目覚めると、ちょうどパートナーからのLINE、
「夜に破水したのでお産に入っている」
そのまま準備と待機、そして病院から連絡が来た時点で家を出る。

その日の朝は雨だった。
大雨という程でもなく、かといって傘が必要ないという程でもない雨。
3月に入ったとはいえまだまだ肌寒い。

パートナーが赴く月々の妊婦検診や、それ以外でも病院に行く必要があるときはいつも晴れだった。
病院までは階段も急な坂もある。
そんな道のりを、傘をさしたり濡れたり足を滑らせる心配もなく、いつも晴れの中歩くことができて、ずいぶん親孝行な息子だ、と冗談交じりでパートナーと話していた。

なのにいざ生まれるときは雨かい!俺は濡らすんかい!!

なんてことを考えながら、自分史上最高速度の早歩きで病院に向かったものである。

コロナ禍の影響で立ち会えるのは最後の数イキミ及び生まれる瞬間と、生まれた後色々と準備を終えた30分間のみ。そこからは退院まで面会不可。
※当時としては少しでも立ち合いを許可してくれるだけでも幸いな方であった。

病院の休憩所みたいな一角で待つ。
何も手がつかずソワソワしていたらあっという間だった。

ということもなく。

普通にスマホアプリで日々ルーティンの漫画を読んだりして過ごしていた。
立会も出来ない男親なんて慌てたところで何にもならないものだと思う。

結果的に3時間ほど待った。
疲れることも飽きることも苛つくこともなく3時間ただ待つことが出来たという事実は、私にとってのその日の特殊性を確かに物語る事実かもしれない。

その瞬間を迎える。

心配も驚嘆も喜びも感謝も全ての感情がないまぜになったまま、生まれ出でた息子をみた瞬間の感想は、「思ったよりもでかいな」であった。

「守ろう」「頑張ろう」というよく聞く父としての感想よりとにかく「愛おしい」。そして何より破水から数えて14時間戦い頑張り続けたパートナーへの感謝。
この時の気持ちや考えをうまく言語化することはいまだにできない。

ただ、「自分の命とこの子の命、どちらかを選ばなきゃいけない瞬間が来たとしたら、自分は迷わずこの子の命を選ぶ」という気持ちは湧いた。
とてもありきたりな言葉だけれど、その日、その時、自分は確かに言葉としてそう思った。

そのまま時間が来て帰路につくことになる。
外に出る。

来るときに降っていた雨は止んでいた。

息子が産まれたばかりの自分には、世界が輝いて見えた。

ということも特になく。

外の世界は何も変わらず、ただただ雨の匂いのする地面とどんよりとした曇り空、そして変わらず肌寒い空気。

特にキラキラもしていない、輝いてもいない。
ただ、私は覚えている。この日の天気、匂い、空気を。

時間にして15:00を回り、遅めの昼食を取りに、来た際とは違うルートを歩き駅の方へ向かった。

そこまでの道のり。
すれ違う人に「俺、いま息子が産まれたんです」と全員に言って回りたくなる完全な不審者ムーブな気持ちを抑えたこと。
適当に入ったバーガーキング。
撮ったばかりの写真たちを眺めながら食ったハンバーガー。
抑えられないニヤニヤ。
帰り道。

そしてその日の夜中、ふと思い立って観た“映画クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲”。

「俺の人生はつまらなくなんかない 家族がいる幸せをあんたたちにもわけてあげたいくらいだぜ」

元々感動的だったこのセリフを、本当の意味で嚙み締めたような気がする。

この日一日のことはずっと覚えている(ただ、一人で食べたはずの夕飯だけ覚えてない)。
息子が誕生日を迎えるたびにきっと思い返す。

いつか忘れることがあるかもしれない。
でもその時はきっと、もっと楽しい素晴らしい体験や思い出が重なっているからであろう。そうなって欲しい。

まだまだ子供がどう育って欲しいか、どうなって欲しいか、親として一年経っても何か明確なビジョンが出来ているわけでもない。

ただ不幸にはならないで欲しい。

きっと世の中の親のほとんどが、当たり前に、有体に持つ気持ちで今日も生きていく。

喃語が豊富になってきた息子。
いつもニコニコ笑顔が絶えない息子。
転んで、ぶつけて、いつも顔面に腫れや痣を作っている息子。
名前を呼ぶと小さく手を挙げて「はーい」と返事が出来るようになってきた息子。
足元で抱っこをせがむポーズを取れるようになってきた息子。

10ヶ月ちょっとという早いタイミングで歩き出し今日もドスドスどすどすと、集合住宅の作法をまだ知らない息子。
食べ物は口から出し、床に落とし、手でこね、机に擦り付けるべきモノだと思い込んでいるらしき息子。
父の顔はつねったり引っ張ったりして遊ぶモノだと思っている息子。

世界で大きな戦争が起きたときに生まれた息子。
鬼塚ちひろの「月光」が子守歌として似合うような世界に生まれた息子。

独身時代、2人夫婦だった時代、
それぞれとはまた違った楽しさや嬉しさを教えてくれる。
独り身の気楽さ、子なし夫婦の余裕、それらはもはや不可逆なものではあるが。

「無償の愛を受けているのは子供ではなく、親である我々の方」。

当たり前かもしれないが自分にとってはこれも新発見。

これからもどうぞよろしく。

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