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言葉が蔑ろにされるとき家が焼け落ちる

 FBでこんな投稿に目が止まった。

 銘はカール・クラウスとある。ウィーン世紀末文化の代表のひとりだから、本来はドイツ語のはず。そのイタリア語訳だけど、なるほどと思ったので以下に訳す。

我々には思想の自由がある。今必要なのは思想だ。

Karl Kraus 1874-1936

 思想の自由があっても、思想がなければどうしようもない。ぼくが今評伝を読んでいるイタリアの女優アンナ・マニャーニも同じようなことを言っている。魂があっても中身がなければ、財布があってもお金が入っていない貧乏人と同じ、じつに哀れだと。大切なのは魂に何を持っているか。つまり、どんな気概を、どんな思想を持っているかなのだ。

 そんなことを考えていたら、さっきNHKで『舟を編む』のドラマをやっていた。印象に残ったのは、「その気持ちを今言葉にしないと、どこかに消えてしまいます」というセリフ。言葉にしないと消えてしまう。消えてしまうと魂にはなにも残らない。だから「諦めず」に「明らめる」のが大切だという。見事な展開。そしてこれは辞書作りの話。諦めずに明らめるとは、言語化することの大切さを言っている。

 言語化するのは大切だ。けれども、ただ言語化すればよいのではない。それがカール・クラウスの言う「思想」なのだろう。思想は言語でできている。言語をきっちりと扱わなければうまく形にならない。言語がいい加減だと、いい加減な思想しかできない。クラウスはそんなことが言いたかったのだろうか。

 実際、クラウスは「コンマ問題」にこだわったそうだ。どの位置にコンマを打つか、正しい位置はどこか。それを徹底的に追求したという。コンマの位置が違えば思想は変わってしまう。コンマ問題は思想の問題だったのだろうか。

 ウィキペディアの英語版を見ていると、彼のこだわりについてこんな記述があった。それは1932年のこと、ウィーンの作曲家エルンスト・クレネクがクラウスに会ったときのこと。ヨーロッパの人々が日本軍による上海砲撃に興奮しているさなか、いわゆる第一次上海事変(1932.1.28-3.3)のときなのだが、カール・クラウスはかのコンマ問題のひとつに取り組んでいたのだという。クラウスはウィーンの音楽家に次のようなことを語ったのだという。

わかっていいるのです。家が燃えているとき、こんなことはすべて無意味だと。しかし、何らかの形で可能である限り、私にはやるしかありません。なぜなら、そうする義務のある人々が常にコンマが正しい場所にあることを確認してたならば、上海が燃えることはなかったでしょうから。

ウィキペディア英語版

 コンマを常に正しい場所におくこと。それは正しい思想をもつこと。正しい思想は家が焼け落ちるのを許さない。カール・クラウスはそう言いたかったのだろうか。彼にそう言わせた背景にはきっと、言葉が蔑ろになり、思想が歪み、政治が欲望に駆り立てられてゆく時代があったのかもしれない。

 同じ年の3月、ドイツでは大統領選挙が行われ、84歳のヒンデンブルグの続投が決まる。もし彼が出ていなければ、大統領になっていたのはヒトラーだったと言われる。いずれにせよ、2年後の1934年、ヒンデンブルグが亡くなると、首相だったヒトラーが大統領を兼任し、「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を制定した。その第1条はこうだ。

(ヒンデンブルクの死後に)ドイツ国大統領の官職はドイツ国首相の官職と統合される。それにより、ドイツ国大統領の従来の権限は、指導者兼ドイツ国首相アドルフ・ヒトラー(der Führer und Reichskanzler Adolf Hitler)に委譲される。彼は自らの代理人を定めるものとする。

ウィキペディア「総統」

 ここにあるのは、たんなる首相職と大統領職の統合ではなく、大統領の権限が、国家内の官職ではない人格としての「指導者兼ドイツ国首相アドルフ・ヒトラー」個人に委譲されるということ。突然入り込んできたこの「指導者」(Führer)が、ヒトラーという人格と統合されるとき、あの「総統」」(Führer)が生まれる。

 思想が言葉によってできるのなら、独裁にも思想があり、それは言葉のアヤが生み出すのだろう。問われるのはコンマの位置にこだわる執拗な思考なのだが、往々にして、まだ家が燃える前から、ほら「家が燃えている」ではないかと言われることになる。アガンベンの言う「例外状態」だ。家が燃えるのような例外状態で、誰がコンマにこだわっていられるか。さっさとその机からケツをあげやがれ。そう言われるのが「家が燃えている」状態なのだ。ところがクラウスは、だからこそコンマにこだわろうとする。できる限り、許される限り。

 しかるべき思想を形成しようと、しかるべく思考する人ならば、コンマは常に正しい場所に置こうとするし、置かせようとするはず。コンマの位置までしっかりと作り上げられた思想があれば、ヒトラーがフューラー(Führer)と呼ばれることもない。共産主義者が攻撃されれば、それは私たちと同じ人だと言えるだろうし、社会主義者が攻撃されても、それも人だと言える。ホモセクシャルが断種されても、それは人の断種だと抵抗できるし、ユダヤ人が劣等民族でアーリア人が優等なのだと言われたら、どちらも人だと立ち上がることもできただろう。そして、かつての上海で家々が燃えることもなく、いまのガザで学校や病院までが爆撃されることだって、ありえないことだったはずだ。

 そういえば、日本で内閣のことを政権と呼ぶようになったのは、たしか安倍晋三内閣のころではなかったか。安倍内閣ではなく安倍政権。だれもがあの言い方を許したとき、日本のフューラーはホクソ笑んでいたのかもしれない。

 くわばら くわばら