愛とは距離をとること
ナポリのインスタグラマーで、ちょっと注目されているのがサラ・ペネロペ・ロビン。最近知ったのだけど、なかなかキレのある発言をしてくれているし、なかなかのパフォーマーでもある。
その最近の投稿でシモーヌ・ヴェイユを引いていた。パドヴァ大学を卒業する直前に元カレに殺されてしまったという女性の殺人事件に触発されたもので、イタリアでは女性たちが殺された女性への追悼と、繰り返されるフェミサイド(女性殺し)への抗議の声があがっているのだが、サラは「愛とは距離をとること」なのだというヴェイユの言葉を引用すると、ここに憎しみによる暴力の連鎖を終わらせる可能性を見る。
愛は憎しみを生み、憎しみは暴力を呼び、暴力は暴力を再生産する。この悪き連鎖を断ち切るには、たしかに距離をとる愛を知る必要があるのだろう。そのためには教育が必要であり、その教育のヒントになるのがヴェイユの言葉だというわけだ。
引用されたヴェールの原典は、おそらくこの部分だと思われる。
イタリア語では「Amare puramente vuol dire consentire alla distanza, adorare la distanza fra sé e l'obbietto del proprio amore.」。フランス語は「Aimer purement, c'est consentir à la distance, c'est adorer la distance entre soi et ce qu'on aime.」となる。
出典はシモーヌ ヴェイユの「愛」(『重力と恩寵』所収)。この部分を日本語にどう訳されているか知りたくて、手元の岩波文庫にあたってみた。すると、これに先立つ部分は訳されているのだが、「距離を受け入れる」の部分が飛ばされている。もしかするとヴァージョンが違うのかもしれないが、ネットで見つけたフランス語とイタリア語を以下にひいておく。
ヴェイユのフランス語は、ぼくが見つけたイタリア語訳とほぼ一致している。
手元にあった岩波訳の該当部分はこうだ。
なにかのミスなのだろうか。ヴァージョンの問題なのだろうか。岩波の Kindle版では、「所有することは穢すことだ(Posséder, c'est souiller)」に続く「Aimer purement…」の部分がまるごと抜け落ちてしまっている。
くわえて、「穢すとは変える…(Souiller, c'est modifier)」の前にある「Tout ce qui est vil ou médiocre …」(下品あるいは凡庸なもののすべては)のパラグラフにも、どうも解せないところがある。まずは「肉的な願望と美しい容貌の魅力」という訳文に該当する箇所が見当たらない。また「内的純粋さ」や「外的純粋さ」にしても同じ。他の訳は確認していないが、どうもしっくりこない。
そこで、ぼくはフランス語ができないのだけど、なんとかイタリア語を参考に、飛ばされた部分を含めて、上に示した3つのパラグラフを訳してみる。こんな感じだろうか。
確かに愛することは、憎しみへと変化し、暴力に結びついてしまうものなのかもしれない。おそらくは、わたしたちの下品さ、凡庸さが悪さをしているのだ。もしも「純粋に愛すること」(aimer purement)ができたとすれば、その愛が相手を汚したり、横暴に振る舞ったり、所有しようとすることはないはず。むしろ、相手との距離をとり、むしろ自分と相手に距離をとることを敬愛する、それこそが純粋な愛の形なのではないかというのだ。
ここで「敬愛する」(adorer)という言われていることに注意しておきたい。イタリア語では「adorare」だが、この動詞の語幹には「orare」(祈り)がある。そしてその「祈り」(orare)が接頭辞に「近づく」(ad-)を伴ったものが、「adorare 」(敬愛する、賞賛する)にほかならない。だとすればどうだろうか。「祈り」を可能にするものが距離であり、この距離こそが愛だということも言えるのかもしれない。
ぼくたちが忘れてしまったのは、そんな距離なのだろう。そしてその忘却は、おそらくはあの「神の死」に対応するものではなかったか。