【岩手県一関市】みちのくひとり旅3日目 藩主田村家の菩提寺祥雲寺参り 23.11.19_12:30
奥州三十三観音霊場から離れて祥雲寺へ。
祥雲寺は一関の市街地にある寺院。
今まで山の中にあった観音霊場とは一味違う。
なぜなら、伊達騒動の主犯伊達兵庫改易後の一関の藩主田村家の菩提寺だから。
田村家はそもそも伊達政宗の正室愛姫の実家。
坂上田村麻呂につながるというから立派な家系だ。
田村家は秀吉の小田原征伐に参戦しなかったため東北仕置で御家断絶に。
遅参の伊達政宗の罪を被った形なのだろう?
伊達家二代藩主の忠宗が母親の遺言である田村家再興を自らの側室の子である宗良により宮城県岩沼に三万石で立藩させ果たした。
そうこうしている間に伊達の本家では伊達騒動だ。
一関の伊達政宗の十男、伊達兵部が伊達家乗っ取りに失敗し改易に。
その後に移封されたのが田村家。同じ三万石で・・・田村家にはなにかいいことがあったのだろうか?岩沼より一関のほうがなにかいいところがあったのだろうか?
やっぱり一関には新幹線も止まるからなぁ・・・
その時、岩沼から移ってきたのが祥雲寺。以降一関田村家の菩提寺となったというわけ。
この田村家というのが幕閣とは不思議な縁で、赤穂の浅野内匠頭が松の廊下の乱心後切腹をしたのが田村家の江戸屋敷。
田村家では大名の切腹ということで屋敷内で準備を進めていたものを、監視の役人から庭での切腹を言い渡されててんやわんや。
伊達騒動から赤穂の仇討ちへと歌舞伎やドラマの脇役は譲らないところが流石です。
そんな田村家の一関の菩提寺。
お寺は流石に立派です。
田村家の墓が墳丘墓という形態であるのだけれど、これは大正時代に東京品川の東禅寺などから合祀したものだそう。
天皇家への忖度だろうか?
なので、江戸時代を通じての菩提寺にしては墓は割と新しい。
他の藩の菩提寺の墓から感じるおどろおどろしさというものは割と少ない。
明治時代の火災で堂宇も消失してしまったので寺全体も割と新しい印象を受ける。
山寺と違い住宅地のお寺となると、火災の被害は免れまい。
コンクリート造りの保性院殿廟には、初代一関藩主伊達正勝(伊達兵部)の母親の木造も安置されている。
改易藩主の母親は、つまりは伊達政宗の側室なわけで、微妙なパワーバランスを感じない訳にはいかない。
祥雲寺はここ
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