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日本社会に足りていない資源

日本での資源不足は、ほとんどを輸入で頼り
自給率が低いというのをみんな認識している。
だが、本当に必要な資源の不足を認識している人は
少ないのではないだろうか

Care(ケア)とはなんだろう

気づき、心配、面倒、保護、
丁寧、用心、気苦労、気にかける
気にする、したがる

名詞も動詞もいろんな意味がある

高齢の母のがんによる手術入院、
障がい者手帳申請に加えて
脊椎の圧迫骨折にて、
介護認定4での申請中

私と二人暮らしの中 
退院を促され、リハビリ病院への
転院もできず、

国の方針としては…
〇〇なので、仕方ありません。

この言葉を言われるたびに
何度も打ちひしがれる

私自身は整体師として、
ケア を提供するサービスを
仕事としている

カラダを整え
こころが穏やかになり
生き生き生きれる環境を
選択するチカラを持っていただくこと

それを生業としている。

生き生きと生きる環境を選択するチカラ

それは自分自身だけでは
持てないチカラだ。

ケアとは、
自己のケアであり
自己理解、自他との関係
社会構造に対する関心、批判
責任をもつこと

この本を読んだ、ケアへの認識です

誰しも母から生まれた

完全なる依存した状態で私たちは生まれる

そして、成人したからといって
誰のケアも受けずに生きることは無理なことだ

今日食べた食事の米を育てた人がいるから
それを脱穀して、炊ける状態にしてくれた人がいて
販売する人がいて、炊飯器を作った人がいて
洗う水もその電力も

そして、その人たちも自分のケアをし
家族のケアをし、ケアされている

みんな何かに依存して、ケアを受け、
ケアを提供して生きている

ひとは、子鹿や子馬のように、
生まれてすぐに、
立ち上がることなどできない
完全なる未熟ものだ

なので、大人による保護が絶対必要だ
必然的に母に依存することになる

ここから母性主義が生まれているらしい。

母は子どもを第1に思いやり 
保護し、いつも気づかい、心配し…

つまりケアすることが、正しく

男性は、その母と子を養うのだから
という理由で家父長制ができた。


それは、いつしか協力ではなく、
支配という、独裁になっていった。

宗教的、経済的、政治的

女性は男性の持ち物になり、
女性は抑圧された階級

人間(メン)は男性を指す言葉であり、
女性の魅力は男性の評価が基準になっていく

妊娠や出産、育児も女性の権限はなく
女性たちは、肉体的にも精神的にも
危害を受ける対象となっていった

中世の時代などは、裕福な貴族の男性が
女性や奴隷に身の回りのケアをさせ
意見を持つものは、排除してきた

その鬱憤がフランス革命だろうが
人々に刷り込まれたバイアスはなかなかとれない

こういったことから、ケアの倫理が
フェミニズムの思想へとつながる。

離婚する前、
私の夫は、働いて得た収入を
自分の趣味などに使うことが多かった。

悪い人間ではないのだが、
典型的な昭和おやじの思考で

今でいうモアハラ夫

私が熱を出して寝込んでいても、
「飯は外で食べるから、大丈夫やで
何やったら、実家に行っとけば?」
といい、子どもの世話をする(ケアする)
という発想はなく、

自分が受けるべきケア(食事の支度や洗濯、
風呂の用意などなど)を一時的に放棄する
物分かりのいい夫だという認識の人だった。

人の評価は、収入の金額であって、
実家の手伝いでの少しのバイト代の私の評価は
最低だったため、

家計に関しての意見は、
聞く価値なしと言われていた。

「文句言いたいなら、稼いでから言え」

ムカついた私が子どもを保育所に預け
必死で稼いだ金額を見たとき
違う家に帰るようになっていた。

日本に足りない資源

男女雇用機会均等法ができて久しい
なのに、まだまだ男女の評価を
正しくしているとは決して言えない

女性が、家族のケアの無償労働から
男性と同じく、
賃金を得る労働をすることが、
当たり前になってきた現在

有償労働プラス無償労働としての
評価をしている者はいるのだろうか

少なくとも国の中央で「国の方針」を
決めてる男性たちには、無いと言える

日本に足りない資源だ

それを考える
気づく、知ることの時間という資源は
もっと足りない

そして、それに気づく時間もない

気づきもケアの訳にはいっている

六歳未満の子どもを持つ夫婦の家事育児関連時間について、
日本の特徴として、女性の育児時間が際立って長い、
翻って男性の育児時間が極めて短いこと~中略~
日本では以前にも増して女性たちが有償労働に就くようになり、
男女ともに有償労働時間が長い。特に男性の有償労働時間が
極端に長い反面、女性に無償労働が極端に偏っている。
そして。「男女ともに有償・無償を合わせた総労働時間が長く、
時間的にはすでに限界まで労働している」

ケアの倫理 322ページ

日本社会における時間の枯渇は経済状況の違いによる
時間活用の仕方の違い、


富裕層は自由時間を購入し、
貧困層は自らしなくてはならなくて
時間を多く奪われる

私の場合、母の今後のケアの時間を
お金で買うという簡単な選択にならないのは、
その金額の負担が、大きく継続する自信がない

さらに
ケアする側介護職やそのサポートの人たちの
賃金の安さや労働の大変さから
常に人員が不足している実情を知っているからだ

ここでも時間(人員)不足でのケアは、
最低責任を果たすケアにとどまるのが精いっぱい
精神的配慮まで要求できないものがある

有償労働の時間を無償労働に時間にシフトした時
自己のケアをすることができなくなる

介護保険制度は以前に比べて充実している
だが、「国の方針では・・」と言って、
基本家族がケアすることが前提となっている

介護をしたい、したくないの話ではなく
それぞれのケアというものの私的領域から
国民国家としての倫理、
構想する道を拓くことが大事ではないか


子育てをはじめ、家族庁という名で
新家父長制へともっていってるように思うのは
私だけだろうか・・・


ケアの倫理

ケアには、関係性の中から
責任が生まれる

誰にとっても同じ環境ではない
諸機関と諸制度が絡み合うのが
現在の社会構造

この中で生きる全てのひとが、
責任を取らなければいけない

ケアする側もケアされる側も
常にどちらにもなるという可能性を
内包しているという意味で
全てのひとに責任がある

二者関係の私的領域から解き放す

介護者が、物理的なケア以上の
精神的配慮へのケアができないのを
その個人を責めるのは間違いだということだ

有償労働なのだからという理由ではなく
お願いしている責任もあるのだから
そして、このケアという労働の評価を
当事者以外誰も高く評価していないという事実を
知らなければならない。

自分には、他人によるケアは必要ないと思えるひとほど
実際には、他者からの気づかい、配慮、物理的な世話に
なってきたし、なっていることに、
私たちは、もっと目を向けるべきだ

本文より

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