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自己責任で道をいく


 知り合いの。一方的にただ知り合いなだけの。

 知り合いのジョーブログカッターの影響で社会科見学をしてきた。(だれがジョーブログカッターやねん)と言われそうだけれど、そこはどうでもよくて。ちゃんとご説明しておくとYouTuberのジョーブログさんという方がいる。

(ちゃんと説明しといたで。ジョーブログカッター。 …誰がジョーブログカッターやねん(*つ´・∀・)つ)


もとい。


(ジョーブログカッターとは、ジョーさんの持ちギャグです。違います。勝手にこちらが気に入ってるだけです。本人は一回しか言ったことない…)


もといのもとい。


自己責任で行ってきた。あわよくばジョーさんいないかなと思いながら。(いてもいるなとしか思わないだろうけれど。…どないやねん)


 遠い世界という程、遠くはなく。近くはなく。そういう人もいるな程度だった。そして実際行ってみて。ジョーブログの初期の頃に出てきていた、教会をみて (あ、あれか)と軽く聖地巡礼感があった。(また教会で聖地巡礼てややこしい…)


 他にも。ヘルメットを被ったお兄さん方を見た。女性はあまり通らないとか聞いたことあったが、そうでもない。ジョーさんの経営するホルモン屋さんにも行った。開いていなかったけれど、中で作業をしてはった。レディゴーと書いてあった。散策をした。あまりに寒い日に行ったので、長居はやめた。西成名物、西成警察の鉄格子を見ようと思ったけれど、寒いのでやめた。


 少し歩いた。通天閣の方に向かった。土地勘がなさすぎて、どこに行き 何を見ればよいのか分からなかった。携帯で調べる程、魅力的な場所でもなさそうなので。(おい。)

 だから何となくで進んだ。目的はなく。意外と目的なく歩く方が、拾える情報や感情がある気がする。人は少ない。呼び込みをしていた。串カツやら、居酒屋やらの呼び込み。マジックショーの呼び込みなんかもあった。写真は撮らなかった。撮るべき写真とそうでない写真のちがいが分からなかった。分別が付かないので、やめた。

 撮影をしている人もいた。カップルの旅の思い出か、YouTubeなのかは分からない。どちらの発信も正しくて、どちらの発信もちょっとおかしい。傾きは否めない。


 居酒屋のお客さんが、呼び込みをしていた。店員より大きな声のいらっしゃいに、店への愛着と「この状況(客が呼び込みをしている状況)、おもしろくないかい?」という あそびが含まれていた。別に何も言われていない。寒い日だったけど、雪はちらついていなかった。道路を走る車は、当たり前だがスタッドレスタイヤではなく、そのままだった。そう、そのままだった。


 これが通天閣かと思って、見上げながらゆっくり近付いた。足を止めた。前に一度、親戚を連れてきた時は気付かなかった。無かったのかもしれない。通天閣の内側に、(地上の内側に) 見事な絵があった。花の絵だったけど、天女とか龍とかの雰囲気で 花の絵があった。まぁ、神聖なものでもないし。ただ見上げて。立ち止まって。見上げた。人は少ないが、そこを通る人はいる。誰も立ち止まって、絵を見ない。それが“よし”も“あし”もなく、ここの土壌だと思う。私もこの土壌にしては、絵とか描くんやなとぷち感動する程度で、クオリティはそりゃ他県の重要文化財レベルの物と比べたら、そうでもない。


 歩く。見る。ふわっと感じる。


 ある人が言っていた。どれだけ偉くなっても。年齢を重ねて、経験を積んでも。(その人の経験上、) 不安に思うことから逃れることは出来ないらしい。ならばいっそ不安な自分も愛そう。駄目な自分も愛してあげよう。僕はいつも、見失いがちな自分の心を取り戻す為に旅をする。あてもなく。ただ歩く。自分が自分でいられる場所は、一つじゃなくてもいい。


 私にとってのその「場所」の一つに、浅草がある。もう何度行ったか分からない。そんな浅草を、通天閣で働く人や行き交う人を見て思い出した。ここは観光地。向こうも観光地。私が私でいられる(取り戻す)場所で、生活をする人々もまた、同じようにこの困難な中を生きているのかと、胸がきゅっとした。元気でやってますか。そんなことを問い掛けた。


 すると、想像力という言葉が急に浮かんだ。




『…私は誰にとっても最も必要な要素は想像力だと思いますのよ。』

 耳を傾けた。

『想像力は私たちをほかの人の立場に置きかえさせてくれます。そうすれば誰でも親切で同情深くて理解を持つことができます。』


《─それは、─》

《─あなたなら、誰の言葉かお分かりでしょう。『…是非とも培うべきです。ちょっとでも想像力のひらめきが現れると直ぐに踏み消してしまうのではなく…』─》


なんてこった。まだ喋る気かい?


《─あなたが本当に守るべきは台本ではありません。あなたは自分の感受性を死守しなさい。今日は、久しぶりに “『きな臭くない』愉快なもの” が読めました。─》


 かつて自分が作った作品が話し掛けてきた。いや、正確にはあしながおじさんのジュディの言葉が蘇ってきた。誰かの立場にたつことは、胸をきゅっとすることだと思う。


 私は、決していいにんげんではない。程ほどにズルい。よくいる通行人。今は、歩行者。台詞はない。でも思う。


やさしい人は、つよい人とは限らない。

つよき人は、優しさを忘れがちである。

賢い人は、偉き人になりがちだけど。

偉き人は、完き人とは限らない。



優しいだけだと漬け込まれる。つよくならなきゃ誰も守れない。心の傷に決着をつけるには、時に戦わねばならぬ時もある。でもゴリゴリに強いやつは、ズルかったり 賢かったりして優しくない。



 歴史の教科書に残る偉人と呼ばれる人たちは、強かった。勝った奴は強かった。

でも強い人は優しかったんだろうか。


一体何人が本当の偉人だったのか。ナポレオンもヒトラーもヘンリー8世も。一瞬、偉かっただけで、心から地球のために尽くした訳ではない。


様々な方向から、多角的見解に触れ、ちがう立場から世界を視る。世界は変えられなくても、己の心のしなやかさだけは変えられる。衛ることが出来る。餅になれ。やわらかくあれ。いつもふざけてもいられない。真面目でも、不真面目でもいられない。Xも。Yも。Zも。試合はまだ終っていない。それぞれが、それぞれの場所で。この世界を少しでもやわらかくする方法がまだあるはずだ。ケビン、まだ終ってないぞ。その魂の色は今何色だ?




わたしたち。

まだ出来ることがあるんじゃない?

そう思う私は、また見えない何かを切り裂く。え、何で切り裂くかって?そんなもん決まっているではあるまいか。


ジョーブログカッター!!

(*つ´・∀・)つ




小林栄 戯曲【社会科見学の感想。】

脚色:シノダおれんじ。

【オチで使うな。】



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