林 文博 Fumihiro Hayashi

言語聴覚士、(株)オフィス・スローライフ代表取締役、児童発達支援事業所「マママとままま…

林 文博 Fumihiro Hayashi

言語聴覚士、(株)オフィス・スローライフ代表取締役、児童発達支援事業所「マママとままま」運営、大学非常勤講師. ABA(応用行動分析学)と非言語コミュニケーションのためのピクトグラムであるJIS絵記号の活用がライフワーク。 障害を超えたインクルーシブな社会作りに貢献したい。

最近の記事

  • 固定された記事

スピーチ・セラピスト?!

「言語訓練専門職員」、、、これなに?  時は1988年、昭和のバブル絶頂期。サラリーマンとして6年が過ぎた頃、会社を辞めることを決めていた私は「では、何で食べていくのか?」と思案していた。芸術関係に職があるだろうか、、臨床心理士や当時脚光を浴びていた日本語教師はどうだろう、、そんな頃、仕事帰りに寄った本屋で手にした職業の本を捲っていくと、目に飛び込んできたのが「言語訓練専門職員」だった。「言語訓練」、、一体どういう仕事だろうか、興味が湧いた。  スマホもネットもない時代、

    • 就職面接と「ヘレン・ケラー」

       秋を迎えて就職活動の時期が来た。記事(#4)で書いたように、30歳を超えても大丈夫な募集があるのだろうか、、求人が貼り出され始めた。その中で年齢制限もなく魅力的に思えた倉敷の病院が目に留まる。倉敷か、、大原美術館のある素敵な街の印象がある。銀行マンをやっている大学からの友人Oも倉敷市で支店勤務をしていた。よし、受けてみよう!😊  10月の半ば、友人Oの家族寮宅に試験前日泊めてもらい、楽しく一夜を過ごしたのだが、生後何ヶ月だっただろうか、赤ちゃんの夜泣きが止まず、真夜中に三

      • 「モーパッサン」隆起 〜 川野先生との出会い

         「唇裂口蓋裂(しんれつこうがいれつ)」という障害を知る方は少ないだろう。口の中の天上(歯の裏から喉ちんこ辺りまで)を口蓋と言う。これは胎生初期に骨が両側から伸びて癒合して完成するのだが、何らかの原因で癒合しきれずに隙間が残り、それが唇まで裂けてしまったまま産まれる乳児がいる。その障害を唇裂口蓋裂という。  中学生の時、唇に傷跡があった子がクラスにいたが、その子が唇裂だったんだと授業で学んで知った。手術の上手い医師だと綺麗にできるようで、今は幼稚園に行く頃には綺麗なお顔にな

        • 「わたしは水」〜NHKFMへ投稿

           夏休みもあっという間に過ぎて授業も再開。前期の試験が行われ、勉強、バイト、勉強、、の日々が戻って来た。  私は勿論、クラスの皆も生活費を切り詰めて生活していた。どこで切り詰めるかと言えば先ずは食費である。そこで、男子数人で学校に近い私のアパートに集まり、一食当たり100円を出し合って野菜と焼きそばをまとめてお昼を作ったりした。ワイワイ、ガヤガヤ、高校か大学時代に返ったようで楽しかった。  テレビを作っていた会社に勤めていた私(記事#5)だが、アパートにテレビはなかった😅

        • 固定された記事

        スピーチ・セラピスト?!

          夏ひと休み 〜 槍ヶ岳へ⛰️

          勉強、バイト、勉強、の日々が続く、、やがて前期が終わり集中講義が始まった。国リハからも先生が来られた。運動性構音障害の第一人者の白坂康俊先生(現群馬パース大学教授)で、パリ大学卒業という珍しい経歴の持ち主である。その授業は軽快で視覚的、もう、分かりやすいっと言ったらない😀 今も初学者に構音の仕組みを教える時は全くそのまま真似て教えるほどである。  さて、集中講義が終わって、夏休みが始まった😊 空はどこまでも高い。中央アルプスも近いじゃないか〜🎶 という声がどこから

          夏ひと休み 〜 槍ヶ岳へ⛰️

          NくんとTさん

           いつの年代でも新しい友人👬ができるのは嬉しく楽しいことだ。この学校(名古屋文化学園言語訓練専門職員養成学校)で出会って卒業後も長く付き合いがある二人が、NくんとTさんである。  Nくんは素晴らしい臨床の素質をもちながら数年でSTの世界を後にした。新聞配達のバイト仲間でもあった。彼がSTを辞めた後も交流は続き、私の人生の転機には必ず会いにきてくれた。STとしての最初の地だった高知、母校の講師として働いた名古屋、そしてUターンした熊本の実家にも来てくれた。彼は大学では剣道部の

          勉強、バイト、勉強、、、

           授業がスタートした。ワクワク、ドキドキ、、クラスの皆も目はキラキラしていた、と思う。  大学卒業以来8年ぶりの授業である。大学時代はアルバイトとサークル、合コンに明け暮れ、授業は単位取得が目的だったので座っている動機が全く違う。知りたい、学びたい、、未知の分野を、という気持ちで一杯だった。席は最前列でのかぶりつき 😄 教えて頂けた先生たちは現役の臨床家、助教授クラスから医師、国立大の元教授など、もちろんその道の専門家ばかりであった。しかも熱心な先生ばかり。今でも全ての授業

          勉強、バイト、勉強、、、

          初日、学級委員に立候補!

           さあ、いよいよ学校がスタートした。  名古屋城から5、6分ほど、閑静な住宅街の一角にある3階建(だった?)の四角いビル。一階は駐車場、二階に事務室があり、すぐ隣が教室だったと思う。狭い図書コーナー、まあまあ広いプレイルーム、個別の訓練室もあったと思う、、30年以上前のこと、記憶は定かではない。。😅  入学式を終えて教室へ。「ワイワイ、ガヤガヤ、、キャー、、」みたいな、30人以上の若い子たち?、私はその時は32歳で、年齢は上の方だろうと思っていた、もしかして最年長?かと思

          初日、学級委員に立候補!

          一路名古屋へ! 軽トラ駆って… 🚚

           学校を決めた32歳、その年の12月一杯で会社を退職した。8年勤めた私の会社はテレビジョンを発明した柳沢健次郎(日本人も発明したんです!)がいた会社で、私の事業部はテレビ研究所と工場があり、2000人以上が働いていたと思う。当時のアメリカの国務長官だったアレクサンダー・ヘイグがヘリコプターで見学にやって来るくらいのちょっとした研究所だった。その時は、多くの職員がグラウンドに日米国旗を振って出迎えた。海外営業部だった私は、その出迎えの列を作った、、「旗振って下さ〜い」と長〜い列

          一路名古屋へ! 軽トラ駆って… 🚚

          受験資格なし。。

           しばらくして、「国立障害者リハビリテーションセンター聴能言語専門職員養成学校」へ願書をお願いしようと電話をした。すると電話口から「受験の資格は30歳までです」と😳、、驚いた。。その時31歳。国立で年齢制限?受話器に向かって「税金払ってます」という言葉が思わず口から出た、、😅 今も年齢制限はあるのだろうか?当時も大学で高齢者の学びは普通にあったし、理由が分からなかった。  うーん、、仕方ない。名古屋に私立が二校ある。当時はST養成校は全国で4校しかなく名古屋に2校あった。

          「国立障害者リハビリテーションセンター聴能言語専門職員養成課程」

           さっそく、「言語訓練専門職員課程」のある、所沢の国立障害者リハビリテーションセンターへ電話をして「見学をさせて下さい」とお願いをした。今、調べていてこの長い学校名が蘇った。STになると周りは「国リハ」と呼んでいたが、正確には記事タイトルのようだ。学生は履歴書の一行にこの学校名を押し込むのに苦労したのではないだろうか、、、😄  1989年のGWの頃だった。丹沢山に登り山小屋に一泊。翌日爽やかな五月晴れの中、下山して行くと富士山が眼前に現れた。当時は絵が趣味の一つで、山行には

          「国立障害者リハビリテーションセンター聴能言語専門職員養成課程」

          「学際」

           「言語訓練専門職員」はスピーチ・セラピストSpeech Therapist(STエスティー)ということがわかった。「セラピスト」、、令和の今(2024)ネットを見ると「セラピスト」という人が多くいるようだが、昭和の当時は一般には馴染みの薄い言葉だった。でも、何か響きがいいな、、「セラピスト」 ふーん、STの基礎科目は心理学、言語学、医学の3本柱か、加えて福祉も学ばなければならないんだ、、幅広い領域だ。  まず心理学。心というものを初めて知った気がしたのは、加藤諦三の「賢