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生きのびる為のBLとフェミニズム

 異性愛規範がしんどい。
家父長制の社会がしんどい。

そこいらじゅうに存在する
ホモソーシャルもミソジニーもうんざり!
他人のパンツの中身はおろか、
ジェンダーの自認にすら手を突っ込もうする人間たちにももううんざり!

 生きているだけで摩耗するクソな世界で、私はBLを読む。ゲイやレズビアン、クィアな人物の物語を、映画を、漫画を、小説を読んで息をしている。BLが好きだ。けれど、作品を読んでいて特にうんざりするものが、度々露見する作者(往々にして異性愛者の女性である)の思想である。

 目にタコができるほど散見される「男を好きになったんじゃない、お前を好きになったんだ」という台詞でキャラクターのセクシャリティを濁し続けるのは、作中のキャラクターへの誠実さに欠けた行いだと思う。そういうやり口でマイノリティは透明化されてきたのだ。同性愛嫌悪が巧妙に隠された言葉だと思う。
 また、「(ゲイに)偏見はないけれど」という台詞をキャラクターが異性愛至上主義者である、という注釈もなく言わせることに、作者の保身以外の何の意味があろうか。本当に偏見がない人間はわざわざそれを口には出さない。
 「男は普通女を好きになるものだ」「男が男を好きになるのは異常だ」という意の文が台詞やモノローグに突出するのを見せられるだけで、確かに削られる心があるのだ。意図せぬところで浴びせられるヘテロの洗礼は殊更ダメージが大きい。

 異性愛の物語に登場する異性愛規範は諦めがつく。だが、異性愛規範から逃げ出す為に選んだ物語で、異性愛規範に傷つけられるのはもう逃げ場がない。私は異性愛規範を描くのを批判しているのではない。異性愛規範を無批判に、疑いをさしはさむ余地もなく、肯定的なものとして描くことを批判している。それは異性愛規範に当て嵌まらない人間を無自覚に踏み躙るからだ。
 重ねて注釈を入れさせてもらうと、私は異性愛を描いた物語も好んで触れている。異性愛が嫌いなのではなく、異性愛規範に傷ついている。

 なぜ私がここまで異性愛至上主義を忌み嫌うのかというと、やはり自身の体験によるものが大きいのだろう。好きな人や好きな異性のタイプを日常会話で聞かれること、どんな類のフィクションでも基本的に恋慕う相手のいる人間が普通とされていること。一つ一つは些細なことでも、直面する度少なからず不安と焦燥を覚える。相手にとって私は想像の埒外にあるもの、その人にとっての異物なのだと。人を好きになったことがないことはそこまで社会で異端とされているのかと。
 恋愛至上主義も異性愛規範もクソだけれど、恋愛をテーマにしたコンテンツには好んで触れている。ただ、現実逃避の場所でさえ傷つくことがあるのが苦しい。私でさえそうなのだから、性的マイノリティを自認する人々は日常で始終マジョリティに踏みつけられ、暗黙の拒絶を感じているのかと想像すると、その生きづらさは察するに余りあるものがある。

 もしこの世に異性愛規範の物語しかなかったら、その世界では私は生きていられなかったかもしれない。クィアな物語のこと、それが許される場があることを知らずに年月を重ねていたら、当然のように押しつけられ続ける煩しさに絶望して、当然のように死んでいたかもしれない。家父長制に殺される人間は決してめずらしくなかったのだろう。私は偶然フェミニズムにアクセスできたからこそ思う。
 この手に掴んだBLでこの地獄を生き延びたい。私は家父長制に殺されたくない。

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