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「小鳥の巣」「トーマの心臓」における傷ついた人間への対峙の仕方について


ポーの一族の小鳥の巣を読み返していて、マチアスのキリアンに対する態度と、トーマの心臓のトーマのユーリに対する態度は全く同じだということに気づく。

彼は ぼくに なにもいわなかった
ただ 花に水をやってくれない? と
キリー… 花に水をやってくれない? と
「生きなきゃ」…と
(小鳥の巣)

ああ 彼は何も知らなかった
彼が知っていたのは
ぼくがひとりで
心を閉ざしているということだけ
(トーマの心臓)

マチアスはキリアンがロビン・カーのことで気に病んでいることを察しながら、何も尋ねずに、ただ温室という自分の居場所をキリアンとシェアし、花に水をやるというささやかな役割を与えることで彼がその場にいられる理由をつくり、束の間の安らぎを与え、寄り添おうとする。トーマもまた、ユーリに何かが起きたことは察しながらも事実については知らないままに、ただ彼がどのような傷を負ったにせよ、自分は変わらずに彼を認め、愛し続けることを示すことによって、ありのままの誰かを無条件に受け入れ、心を開くことの大切さを伝えようとする。(これはオスカーも同じかもしれない)

しかしキリアンがユーリの場合よりもさらに複雑なのは、ユーリが他者から受けた暴力の純粋な被害者であることに対して、キリアンは自身がロビン・カーという弱い存在を追い詰めた主体であるという加害者としての自責の念に苦しんでいること。加害者もまた(それがどのような理由であれ、あるいは今自分がどれだけそれを悔いていようと)自分が加害者であるという自覚を持ってしまった瞬間から、傷つく主体として苦しみ始める。それは寂しさゆえに大切な人を呪われた仲間に引き込んでしまったり、意図せず死なせてしまったりした過去をもつエドガーやアラン、あるいはグロフ先生も同じで(キリアンからロビン・カーの話を聞いたとき、エドガーは涙を流してしまうし、グロフ先生はエドガーを罰することができない)、だからポーの一族は全編を通して、加害者としての容赦のない自己批判の視点が本当に切なく、心に刺さる。

目の前にいる人間が被害者であれ、あるいは加害者であれ、傷ついた人間に対しては、彼らはただ寄り添う。相手の全てを把握し、分かりあわなくても、相手を受け入れ、心を通わせることは可能だということを彼らは信じ、実践する。そして本人が打ち明けるまでは、察しても決して触れない。誰かに何かを打ち明けさせる、語らせるというのは暴力にもなりうるから。彼らはただ黙って側にいる。ジャッジすることも、諭すこともなく。この態度の繊細さと優しさ、そして切実さにいつも心が揺さぶられて、読むたびに泣いてしまうのだと思う。

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