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哲学カフェというゆるいアウトプットの場

縁があって「哲学カフェ」というものに参加したのでその所感を記録しておく。
ちなみに私の哲学に関する知識は大学の教養講義で哲学概論を1コマ履修し、なんとなくギリシャの哲学者は好きだがドイツ哲学者は何言ってるのかよくわからん。
好きな哲学書は仏哲学者アランの『幸福論』、なんか好きな哲学関係の言葉は英語の哲学(Philosophy)の元になったギリシャ語のphilosophia「知(sophia)を愛する(philein)」

そもそも哲学カフェとは

最初紹介してもらった時に想像した哲学カフェはなんとなくマッスルバーとか数学カフェのような、特定の分野や趣味について詳しい人が常駐していたり同じような趣味を持つ人が集うカフェかと思っていたがどうやら違うらしい。

哲学カフェとは街中のカフェなど誰もが自由に出入りできる場所で、飲み物を片手に参加者同士で特定のテーマについて話し合う営みです。1992年にフランス・パリのカフェで偶然生まれ、その後世界中に広がっていきました。

カフェフィロ https://cafephilo.jp/event-page/

上層階級による哲学でなく市民による哲学の場らしい。
基本的なルールは引用したように飲み物を片手に特定のテーマについて話し合う場のようである。ただ参加者が好き勝手に喋っていては場が乱れるため進行役が適宜参加者の主張をまとめたり、参加者に意見を聞いたりなど場が混沌<カオス>にのまれないように進行する。

他者の思考博覧会

今回参加した哲学カフェはおそらく一般的な哲学カフェとは少し異なり、開催場所が就労移行支援事務所での開催だった為私含め参加者が発達障害当事者であったり、精神疾患や何かしらの生きづらさを社会に感じている人達とその事務所のスタッフと進行役の哲学者で哲学カフェは「決めるには何が必要?」というテーマで幕を開けた。
座っている席順に時計回りでそれぞれ「何が必要か」と思うものを発表していく。お金が必要だと言う人、ドキドキ感やワクワク感などポジティヴな気持ちが必要という意見、何かを判断する為に必要な知識や基準。十人十色もかくや、似たような意見はあるが全く同じ意見というものは出てこないのが面白い。
こういった他者の常識を垣間見えるのも哲学カフェの面白みだと思う。

チキチキ☆常識解体ショー

ここからは少し発達障害者として感じた事を記す。
良くも悪くも精神、肉体問わず障害者や社会的弱者に分類される我々(こうやって一括りにするのも本来避けるべきなのかもしれないが)は常に「普通」とされる社会の常識というものはハードルのような障害物と感じたり、人によっては超える事が困難な障壁として常について回ってくる影法師でもある。
「普通それくらいわかるでしょ」「こういう時普通はさ」と言われても、その普通という物差しが当てはまらないまたはその「普通」という尺度によって幼少から現在まで何らかの困りごとが常に脳の片隅につきまとう側からすると世間で「普通」や常識的とされる社会を構成する前提知識や不文律の暗黙の了解のルールというものを一度分解し、解体された常識というものを定義し、考え直す哲学とは相性が良い。

 あくまで私個人の場合だが、発達障害者の生きづらさというのは「周囲に自身の困った感が理解してもらえない」経験の連続により、社会に適応しようとして過剰適応した結果疲弊したり、己の特性を説明しても理解してもらえない、それくらい誰でもよくある事と問題の過小評価化などによる周囲に対する諦め感なども多いのではないかと思う。
哲学カフェは参加者の発言を否定しない、本来意図して決められたルールではないだろうがある種このルールが多様な意見を出す為のセーフティとして機能している。
例え発言が頓珍漢であっても「普通」でなくても否定されず発言して良いというのは、不文律の多い会話コミュニケーションにおいて大きなストレス軽減になり活発な会話に発展する。

1人だとつい抱え込んでしまう

 哲学カフェ終了後、参加者と進行役の哲学者との会話を聞いているとママ向けの哲学カフェが意外と好評なのだとの話を聞いた。
子育てに悩みはつきものだ。前職で図書館司書をしていた時、幼児向けの読み聞かせを毎週定期開催していた。
勿論毎週来れる方ばかりではないのでお久しぶりの方は勿論はじめましての方もいたし、なんなら図書館の読み聞かせで会うのは初めてだが市の子育てイベントや定期検診などで既に交流があり顔なじみのママ友さん達なんかも結構いた。
今思えば誰もがみな、正しいとされる育児を目指しながら正解の無い育児に疲れて同じ悩みを持つ同氏と悩みを共有または共感したがっていたようにも思える。
これは経験則ではあるが、1人で悩む時間が増えれば増えるほどその悩みは湿度をもち堂々巡りの後にうまくいかないのは環境ではなく自分に原因があるのではないかと自分を責めてしまう。
正しさという共同幻想の前に我々はあまりにも弱く、またその価値観に従属し頭を垂れてしまう。

有益だけが正解なのか

 正しい事は勿論良いことである、正解を重ねれば重ねるほど人生というものは充実していく。そんな思想を薄っすらと最近の世間から感じる。
勿論正しい事は良いことである、フェイクニュースや嘘の情報をインターネットに流して人を騙すのはよくない事である。
反面、ジョークを楽しめるだけの心の余裕というものが目減りしてきているのではないかというものも感じる。まぁジョークがフェイクニュースとイコールかと言われるとその限りではないのだが。
なんとなくここ数年の世間からは「役に立たないものは不要なもの」とする風潮が強いように思う。
あのソクラテスですら「アンタもいい年なんだから哲学なんてやめて、処世術とか儲け術とかそういう有益な事を考えなよ」と言われているのである。あの名前だけは聞いたことのある筆頭哲学者ソクラテスですらそんな事を言われているのである。
しかし哲学は今も続いている。私は哲学の専門家ではないので哲学が今日まで続いてきた理由についてはよく知らない。
実用的な学問を食事とするとおやつのような立ち位置に哲学があるのかもしれない、食事だけで栄養は賄えるがそこにお菓子や嗜好品のような楽しみがあれば更に人生は豊かになるのではないか。

人はパンのみに生きるにあらず
聖書はモーセの言葉であるが、果たして哲学はパンに乗せるジャムやハムであろうか。

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