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「我慢」から「喜び」の時代へ

幸せの定義は、時代とともに変化する。

第二次大戦後の物のない時代は、物質的豊かさが幸せの定義をつくっていたのだと思う。

しかし、物質的な豊かさが達成された現在、幸せの定義が精神に移行するのは当然のことなのかもしれない。

これまでは物質的豊かさを得るために、我慢と引き換えに豊かさを手に入れていたけれど、我慢では本当の意味で豊にはなれないということを多くの人が悟っている。

我慢することは、自分の身体や精神を痛めることであると知って、我慢しなくても生きていけるのではないかと、これまでとは違った考え方を持つようになっている。

昭和の頃のように、我慢して働いてもその分の報酬が貰えるのであれば、我慢の甲斐もあったかもしれない。

しかし、今の労働に対する報酬に期待できない状態であれば、我慢して働くことに意味を見い出すことは難しいといっていい。

こういった時代の背景からも、物質的な豊かさから精神的豊かさへと考え方が変化するのは当然のことなのかもしれない。

ちなみに「我慢」という言葉の語源は、「自分の慢心を抑える」という意味だったらしい。

しかし、今は我慢の意味は「耐えしのぐ」という意味になっていて、いわば慢心を生み出さないための予防の言葉になっている。

我慢とは欲求を持たずに粛々と耐えしのいで生きるという意味といってもいいだろう。

働いた分の収入を得られるのであれば、耐えしのんで生きるといった感覚はないかもしれない。

耐えた分、豊かになるなら我慢もできる。

しかし、過剰に働いてもその分の収入を得られないのであれば、報われた感じがしないため、一昔前の羽振りが良かった時代に比べれば、我慢の意味合いが違ってくるといっていいだろう。

我慢に見合う「何か」があれば、もしかすると我慢もできるかもしれない。

しかし、そういった「何か」がないのであれば、我慢をせずにもっと楽しく生きていった方がいいのではないかと考えるのはもっともなことだ。

人の本能として、楽しんで過ごしたいと思うのは当然のこと。

我慢は、人の本能に反している。

現在の資本主義は、購買によってお金を循環させることで成り立っている。

このため、いかに購買意欲を誘うかが資本主義の根幹にある。

広告が至る所にあるのは、そういった理由からだ。

テレビは、CMを流している会社がお金を出して番組を作っているから、その背景には、商品を買ってもらうという意図がある。

このため情報ソースがテレビ主流の時代は、商品を購入して豊かになるという当時の時代性とメディアが一体となって資本主義というシステムを強固なものにしていたといっていい。

しかし、テレビ一択の時代は終焉し、現在、精神の時代に入っていったことは当然のシンクロといえる。

もう誰もが同じ方向を向く時代ではない。

多様性は、情報ソースの多さによって生まれるものだ。

いずれにせよ、今は「幸せ」の定義を新たに更新するときと考えていいだろう。

古いシステムを採用している限り、我々が進化していくことはない。

たとえば、食糧を廃棄してまで商品をつくるのは物質主義の名残であり、古いシステムをまだ採用していると考えることができる。

無駄を生みだしてまでも利益を生み出すのが、資本主義の悪癖だからだ。

廃棄するほどの食糧を生産しているということは、労働が無駄になっているということでもある。

過剰に働いてまで無駄になるものを生み出すことに何の意味があるのか。

理性で考えるなら廃棄する食料を減らして、その分の食料を別な形で活用できるような対策を取るのが本来の姿でもある。

現代が抱えている問題は、我々の価値観が反映されているからこそ生まれるものであり、我々の価値観を改め、これからの「幸せ」のあり方を新たに再定義していかなければ、こういった食品ロスの問題すらも解決することはできないのかもしれない。

「幸せ」とは何か、といった生きるための指標を新しく構築していかないと食品ロスの問題以上に、自分という存在も無駄にしてしまいかねない。

消費と浪費を混同している限り、我々は進化していくことはできない。

では、どうすれば新しく「幸せ」の定義を作りなおすことができるようになるのだろうか。

「我慢」の対義語となる言葉として、「喜び」という言葉を上げてもいいだろう。

これまでが「我慢」の時代だったのであるならば、これからはその反対の「喜び」を時代のあり方に変えていけばいい。

「我慢」は自分の心を抑えるのに対し、「喜び」は自分の心を解放させる。

しかも、人は喜びで生きるとき我慢することができなくなる。

なぜかといえば、我慢することは喜びにはならないからだ。

そして、我々が我慢することをやめて喜びを重視して生きていくようになれば、今問題とされていることが解決されていく可能性が十分にある。

自分の喜びを軸にして生きるようになれば、人はシンプルに生きていけるようになる。

自分の喜びのために生きるようになれば、生活の時間配分を自分で決められるようになるため時間の無駄が少なくなる。

また自分の喜びを明確にすることができれば、本当に必要とする物以外、購入することがなくなっていくことだろう。

喜びという生きる目的を明確にすればするほど、無駄と感じるようなことはしなくなる。

自分の喜びを優先して生きるようになると、お金も時間も無駄を省くように考えるようになっていく。

そういったシンプルさが、これまでの過剰さを削減させる原因になることだろう。

生活の多くの時間を自分のために使うようになれば、ストレスを感じることがなくなり、過剰に食料を摂取することもなくなっていくかもしれない。

我慢して夜遅くまで働かなくなれば、24時間お店を開けておく必要もないし、保存料をたくさん使う食糧を生産する必要もなくなる。

便利さの裏側には、過剰さが存在している。

自分の喜びを軸にして生きていると、自暴自棄になることもなく自分の身体を大切に思うようになるから、食べるものの中身を気にかけるようにもなるだろう。

喜びを軸にして生きれば、ストレスレスがなるため、病院に通うこともなくなって薬を必要としなくなる。

そうなれば医療費が浮くことになり、その分のお金を別な形で使うことも可能になる。

浮いた医療費を教育に当ててもいいだろう。

元気な人が増えて、そういった人達に教育の場面に携わっていけば、学校の先生の負担も減るし、より専門的なことを子どもたちに教えることも可能になる。

こういった具合に自分の「喜び」を軸にして生きられるようになれば、これまで過剰とされていたことを自然と削いでいくことができ、それを別なところへ補填していくこともできる。

無駄を利益に当てるシステムは、本末転倒のシステムなのだ。

我々の望みは我慢することなく、自分の心に素直に生きること。

我慢ではなく喜びで生きることが、我々の進化した姿になるといってもいいだろう。

前回の記事でも書いたけれど、喜びで生きれば自己実現を果たせるようになるものであり、自己実現を果たした人は世の中に恩返しをするようになるものだ。

そうやって、我々の多くが「我慢」から「喜び」へとシフトして生きていくことができれば、世の中のあり方を変えていくことができるようになる。

「喜び」が人の意識を高める。

「喜び」は、「愛」や「平和」、「自由」といったいくつもの要素を含む高い意識である。

多くの人が「喜び」の意識を使って生きるようになれば、今ある様々な問題を瞬く間に解消させることができるようになるだろう。

我慢は人の気持ちを低下させるが、喜びは人の心を向上させる。

「喜び」という抽象度の高い意識を使って生きる人が増えれば、社会のあり方を今以上によりよいものに変えることができるようになるはずなのだ。

「喜び」の総和が幸せな社会を生み出す。

だからこそ、何かを選択するなら自分にとっての喜びを優先さる必要がある。

意識の次元を上げるとは、「喜び」といった高い意識を活用して生きることなのだ。




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