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5.主語が日本文化を守護する

今日は駄洒落のようなタイトルです。

日本人は、会話の中で主語をあまり使わない人種といわれています。

一方、英語だと必ず主語が言葉の最初に来るものです。

たとえば、空腹を感じたときなどは、英語では「I am hungry」となりますが、日本語だと「お腹がすいた」といい「私」を省略します。

英語だと「私は」とか「我々は」とか「彼は」といった感じで、どんなときでも主語が明確になるため、どことなく自分と他者の境界をはっきりさせているような気がします。

しかし、日本語の場合は、主語のない発言が多いため、自分の発言が他者に共感されやすいといえます。

このため、ある人が「お腹が空いた」と言ったら「僕も」と、ついつい思ってしまったりします。

こういった言葉の構造が、いい意味では、日本人は共感力が高くしているといえるし、その反対に、日本人ははっきりしないといわれる所以なのかもしれません。

その一方で、英語のような主語が最初に来る言語では、「私は」とか「私たちは」といった主体を限定する言葉が、境界を明確にしてしまうという構造があると考えることができます。

こういったことから、主語を必ず入れて会話するという構造が、結果として自我を強化してしまうのではないかと考えさせたりします。

人の自我が確立されていけばいくほど、主体は自分にあると思うようになっていくため、主語を必ず使って話す国では、個人を大切にする文化が生まれると考えられます。

しかし、主語をあまり使わない日本語のような言語を使っていると、自我の確立がしずらくなり、個人よりも共同体の意識の方が強くなると考えることができます。

こういったことから、日本で全体性を重んじる文化が生まれるのは当然のことなのかもしれません。

日本は古来から、この世界には八百万の神いるという文化が根付いてきました。

八百万の神とは、この世界のいたるところに神がいるということであり、ある意味で神の権力が分散されているといえます。

たとえば、八百万の神の一人ひとりの自我が強くなってしまい、強く自己主張をするようになってしまうと収集がつかなくなってしまいます。

このため、たくさんの神がいる社会では神同士で「善いころ合い」を見つける必要が出てきます。

一方、権限の強い一神教の場合は、一人の神が絶対となってしまうため、神の思惑が、そのまま尊重される縦の社会が生まれてしまいす。

八百万の神が同時に存在する社会は、横の繋がりの社会であり、お互いを活かし合う社会です。

このため横の繋がりの社会は、自己主張することよりも、お互いを気遣ったり、尊重し合うことを優先するようになっていきます。

こういったことから、日本人は、相手を気遣うことや、調和を保つということが文化として古来から伝わってきたと考えることができます。

しかし、近年は西洋文化の影響もあり、日本人の自我性が強くなってきているといっていいでしょう。

とはいえ、やはり我々は、日本語を使っていることから、その構造上、主語を必ず使う言語の人たちと比べると、自我性は弱いのではないかと思うのです。

ここまでのことをまとめると、日本語は、言語の構造として人の自我を弱めてしまうものであるという推測を立てることができる、ということになります。

といったところで、今日のテーマの「主語が日本文化を守護する」です。

人は、自我性が強くなると分離意識が強くなっていくものです。

分離意識は当然、競争や争いを生み出します。

その一方で、自我性が弱いということは、分離意識があまりないということであるため、競争や争いを好まないということになります。

日本の縄文時代は、およそ1万年ほど続いたといわれ、その間、争うことが全くなかったといわれています。

このことは、縄文人の自我が非常に小さかったと考えることができます。

縄文人の自我の小さの要因は、おそらく色々とあるといえますが、その一つに、日本語という言葉の構造があったと考えることができるし、逆に言えば、自我の小さかった縄文人たちが使っていた言葉だからこそ、主語をあまり必要としない日本語が生まれたと考えることができます。

そういった意味では、我々が日本語を使っている限り、自分の自我を強めていくことは難しいといってもいいかもしれません。

このことは、主語をあまり使わない我々だからこそ、古来からの日本の文化を守護できていると考えることもできるのです。

日本には、木を切ると必ず苗を植えるという文化があります。

古来の日本人は、自然を自分と同じ立場で見ていたからこそ、木を切ったあとに苗を植えようという思いが生まれたのだと思います。

もし古代の日本人の自我が強かったなら、おそらくこういった文化は生まれなかったと思います。

主語をあまり使わない日本語が生まれた背景には、我々は常にひとつであるという思想があったと考えられます。

我々は、常に一つであるからこそ、自他を明確に分けてしまう主語を使う必要がなかったのです。

そういった意味でも、日本語を使っている我々が、「全は個であり、個は全である」というワンネスの意識を持っていけるようになると、自然という八百万の神とともに、生きていけるようになっていきます。

自然という八百万の神と生きるとは、自然の循環の中で生きていくということです。

そこで、我々は自然と分離した存在ではなく、自然の中で一つの役割を担っている存在であるという認識を持てるようになると、自然と共生していけるようになっていくことでしょう。

そして、我々が自然とともに生きていけるようになることができれば、自然が我々を守護してくれるようになるのです。

日本人が、会話の中で主語をあまり使わないのは、自分と自然と対等に見ていた過去があったからです。

そういった名残が、今の日本語となっていると考えることができるのです。

人間が全体性の意識を持って生きることができると、競うことも争うこともできなくなります。

なぜかというと、木は私であり、私は木であるからです。

森は私であり、私が森だからです。

あるいは、私はあなたであり、あなたは私だからです。

我々がこういった全体性の意識を持って生きていけるようになったとき、この世界から争いが消えていくことでしょう。

こういった世の中が近い未来にやってくることを期待したいと思います。

今回の話は、「証拠」「根拠」「裏付け」の乏しい話になっています。

ですので、話半分で理解して頂ければと思います。

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