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「望んでする」が幸せの分岐点

前回、「過程を楽しむこと、人生を楽しむこと」という記事を書いたあと、ちょっとした気づきがあったので、今回はそれを書いていく。

どういった気づきがあったかというと、過程を楽しめるかどうかは「自ら望んでやっているか、やらされているかの違い」ということだ。

たとえば、自分が望んでしていることは、いつまでも飽きることなくできるためゴールが存在せず、それをやり続けていく限り過程になる。

しかし、やらされていると思ってすることは楽しめないだけでなく、それを早く終わらせたいという思いですることになるため、「終わらせる」という結果を求めて行動することになる。

このため、「自分が望んでやっている」という思いを持って行動できるようになると過程を楽しめるようになる。

しかし、「やらされている」と思ってやると楽しく感じないため、その結果、早く終わらせようという結果主義になってしまう。

つまり、「やりたくてしている」ときは、それが「過程」になるのに対し、「やらされている」と思ってすることは、それを終わらせるという「結果」が目的になってしまう。

自分が望んで出来ることは、それが上手くいっても行かなくても、それを楽しむことができるため、そういった行為のすべてが過程となる。

けれども、自分で望んでいないことをしているときは、そこから解放されることが目的となってしまうため、解放されるという目的が達成されたときは上手くいったという結果を得られるものの、解放されなかったりすると上手くいかなかったという結果が出てしまう。

自分が望んでしていることは、結果は過程の一部と捉えられるのに対し、自分が望んでいないことは、その結果に一喜一憂することになる。

一喜一憂するということは喜びと悲しみの二元の意識だが、一喜一憂しなければ喜びのみの一元的な意識となる。

そういった意味でも、自分が望んで出来ること多くして過ごせるようになれば、人生そのものを喜びの過程の中で過ごせるようになっていく。

だからこそ、楽しいと思えることを積極的に選んで生きていくのが人生を楽しむための最善の方法になるといっていいだろう。

自分が楽しめることをするとき「意欲」が生れる。

やらされていると思って生きていると意欲が生まれることはない。

何かを楽しいと思ってすることができれば、自然と意欲が湧いてくるもの。

意欲とは、まさにポジティブな意識の出発点なのだ。

では、どうすれば意欲を持って生きられるようになるかというと、まず自分を知ることが大切になってくる。

自分は何をすれば楽しんで生きていけるようになるのかを知って、それを実践して生きていけるようになれると、意欲を持って生きられるようになるだろう。

しかも、自分が何をすれば喜ぶかを知るのは、早ければ早い方がいいから、これから育っていく子どもたちには、自分の好きなことが何なのかを発見できるような教育を受けられるようになって欲しいと思う。

いや、教育という言葉自体に違和感さえ感じる。

子どもがのびのびと自分を生きられるようになる環境を創って、子ども自身が持っている可能性を自らの力で引き出せるようにするのが大人の役目といってもいいだろう。

そのためには、大人自身が自らの能力を導き出せるようになって、どんな人でも自分が楽しいと感じることを選択して生きられるような世の中を創っていくのが理想なのだ。

楽しむことを知っている大人だからこそ、子どもの才能を伸ばせるようになる。

人は日々を楽しんで過ごすことができるようになると、自分を生きられるようになるものであり、そうやって楽しんで生きていけるようになれば、人生は喜びの過程にあると捉えて生きられるようになっていく。

楽しむことに年齢は関係ないから、誰もが日々を楽しんで生きていけるようになれば、心豊かな平和な社会を生み出すことができるようになるだろう。

そして多くの人が生きることを楽しんで、人生そのものを喜びの過程にすることができれば社会のあり方が一変する。

だからこそ、勇気を持って自分を生きることが出発点となる。

やらされるのではなく望んでする。

それが幸せになるための分岐点。

もちろん、このことは誰もが知っていることでもある。

誰もが、好きなことをして生きたいと思って生きている。

しかし、今の社会では、まだまだそれが達成できていないといっていい。

今の社会は、自分の思いを実現させることが難しいシステムとなっている。

こういった現実を少しでも変えていけたらと思う。

では、どうすれば新しい社会を生みだしていくことができるのか。

その方法のひとつとして「生かされているということに気づく」ということが思いつく。

多くの人が、自分は生かされていると気づくことができたとき、社会の構造が一変することだろう。

「やらされる」と「生かされている」というこの2つは、どちらも受け身の言葉だけれど、その意味は大きく異なっている。

生かされているからこそ、しなければならないことがある。

このことに気づくとき、生き方が180度変わっていくのではないかと思う。

次回は、このことについて書いていこうと思う。


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