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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(11)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(11)

終わらない「問い」『罪と罰』のエピローグで、作者は、ラスコーリニコフの更生が徐々にはじまりつつあることを述べて、小説を終えた。

このラスコーリニコフの更生の過程は、作家自身の監獄での体験から生じた精神的過程、おそらく自己と民衆とを隔てる深淵の超克に向けた自己変容の過程と重なるものであったのではないか?

筆者は、前回の最後にそのような推測に言及した。
そのように推測する理由のひとつは、監獄内のド

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(10)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(10)

エピローグ『罪と罰』の本編は、ラスコーリニコフの自首の場面で終わり、その後日談として短い「エピローグ」が付いている。

エピローグでは、ラスコーリニコフの裁判の経過と判決(八年の徒刑)、妹ドゥーニャの結婚と母の死、シベリアの監獄での生活、その監獄のある町に移住したソーニャの暮らしぶりなどが淡々と描かれる。

このエピローグは、記述は簡潔ながら、その内容は非常に豊かな充実したものであり、引用を始める

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(9)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(9)

リザヴェータはなぜ殺されたのか?第6回で述べたように、ラスコーリニコフはソーニャへの罪の告白によって、束の間、自己を脅かす苦悩から癒され、息を吹き返す。
それは、あらゆる人間から切り離され、もはや誰ともつながることができないと感じていた主人公が、ソーニャとの間で人間的なつながりの回復を実感したためにほかならない。

なぜそのような「奇跡」が生じ得たのだろうか?
実は、そこに「リザヴェータが殺された

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(8)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(8)

ラスコーリニコフと神前回までに置き去りにしてきたいくつかの問題について、気の向くままに考えてみたい。

まず、ラスコーリニコフは神を信じていたか?

このような問題設定は、馬鹿げたものに聞こえるかもしれない。ラスコーリニコフ本人の自覚において、彼が神の存在を信じていなかったことは明白だからだ。
そもそも、彼の恐ろしい犯行は、信仰の不在ゆえに企図され得たのだ、と言うことができる。

とりわけ、ラスコ

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(7)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(7)

アリョーシャの絶望と再生ドストエフスキーは『罪と罰』において「神をつうじた人間どうしの絆」という観念を暗示していた。そのような仮説への確信をさらに深めてくれる情景が『カラマーゾフの兄弟』の一場面に描かれている。

それは、カラマーゾフ家の三兄弟の末っ子、アレクセイ・カラマーゾフ、すなわちアリョーシャにとってのクライマックスと言える場面である。

修道院に暮らす若き修道僧のアリョーシャは、自らの師で

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(6)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(6)

ソーニャの直観神との絆を自ら断ち切ったことによって、あらゆる人間から切り離されてしまったラスコーリニコフの運命を、直観的に把握した登場人物が存在する。それが、ソーニャ・マルメラードワである。

ラスコーリニコフは、まだ取り返しのつかぬ犯罪に手を染める前に、酒場で偶然知り合った酒浸りの元官吏マルメラードフから、彼と前妻との間の娘であるソーニャの不幸な身の上を聞くことになる。
ソーニャは、貧しさのどん

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(5)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(5)

糸杉と銅の十字架ラスコーリニコフは、自ら神との絆を断ち切ったために、この世の誰ともつながることができなくなったのだ。そのような仮説の「裏付け」となるようなディテールを、さらに一つ一つ積み重ねていくこととしよう。

前回に続いて、犯行の現場に注目したい。

ラスコーリニコフは、老婆を斧で撲殺した後、室内で金目の物を物色しながら、不意に不安に襲われ、老婆が間違いなく死んでいるか、かがみこんで検分する

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(4)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(4)

断ち割る者
数年前に、渋谷の Bunkamura シアターコクーンで、『罪と罰』の舞台を観た。
ロイヤル・シェークスピア・カンパニー出身のイギリス人演出家による作品で、ラスコーリニコフ役は三浦春馬(合掌!)、ソーニャを大島優子が演じていた。劇場はほぼ満席で、意外なことに若い女性客が多数つめかけていたのは、どうやら三浦春馬がお目当てのようだった。

舞台の出来栄えについては、全体としては、特に可もな

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(3)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(3)

仮説ドストエフスキーは、処女作『貧しき人々』を二十三歳で書き、当時の著名な批評家であったベリンスキーに絶賛され、鮮烈な文壇デビューを果たした。
ドストエフスキーは、『作家の日記』において、この時ベリンスキーから受けた賞賛と激励が「自分の生涯における荘重な瞬間、いわば一つの転機」となり、「自分はベリンスキーの賛辞に値する人間になろう」と誓ったと、回想している。

ベリンスキーの賛辞とはどのようなも

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(2)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(2)

様々な解釈『罪と罰』で提起されたこの「謎」、この「感覚」について、著名な研究者・批評家はどのような説明をしているだろうか。

以下では、この「感覚」に注目し、あるいはなんらかの解釈を行っている先行研究の事例として、文芸評論家の小林秀雄(1902-83)、ともにロシアの哲学者・思想家であるニコライ・ベルジャーエフ(1874-1948)及びレフ・シェストフ(1866-1938)、ロシア文学者の江川卓(

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(1)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(1)

今回から計10回程度(予定)にわたり、極「私」的・独善的な『罪と罰』論を投稿しようと思う。

なぜ自ら「独善的」などと自虐めいたことを言うかというと、実は、この『罪と罰』論を、2020年度及び2021年度の2回にわたり、それぞれ異なる評論文学賞に応募したのだが、ともに最終選考に残ることもなく、あえなく落選したからだ。

筆者としては、これこそ『罪と罰』の画期的な解釈であると、秘かにうぬぼれていたの

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ドストエフスキーと神―『作家の日記』より⑰―

ドストエフスキーと神―『作家の日記』より⑰―

『カラマーゾフの兄弟』の完成を経て、ドストエフスキーは、休刊していた『作家の日記』の刊行を再開する。その復刊第一号である1881年1月号が結果的に『日記』の最終号となった。

E・H・カーのドストエフスキー伝によれば、同号の原稿が書きあげられて印刷所に送られたのが1881年1月25日(ユリウス暦)であり、そのわずか3日後の1月28日に、ドストエフスキーは五十九歳でこの世を去った。死因は、肺の動脈の

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ドストエフスキーのプーシキン論―『作家の日記』より⑯―

ドストエフスキーのプーシキン論―『作家の日記』より⑯―

『作家の日記』は1877年12月号をもっていったん休刊し、作家は1878年から最後の大作『カラマーゾフの兄弟』に集中することとなる。以後、『日記』の刊行は1880年に一度だけ発行された特別号と1881年1月の復刊第一号との二号分を残すのみである。

前回の投稿(『ネクラーソフの死』―『作家の日記より』⑮―)の末尾に、筆者は上のように記した。
今回は残された二号のうちのひとつ、休刊中の1880年8月

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ネクラーソフの死―『作家の日記』より⑮―

ネクラーソフの死―『作家の日記』より⑮―

奇妙な追悼文『作家の日記』1877年12月号には、詩人のネクラーソフを追悼する文章が掲載されている。

N・A・ネクラーソフ(1821-77)は、19世紀ロシアを代表する詩人であり、農奴解放前後の時期の農民の悲惨な境遇をしばしば題材としたことから、「民衆の苦しみの歌い手」として知られる(中村喜和ほか編『ロシア文学案内』朝日出版社, 1977)。

最初に断わっておくと、私は、ネクラーソフの詩をほと

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