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#180 明治維新と信仰【宮沢賢治とシャーマンと山 その53】

(続き)

修験道にゆかりの深い神仏習合の「権現」が神楽で舞われることについては、神楽が修験道にゆかりが深いことを考えると違和感がない。しかし、先に触れたように、その権現舞と並んで明治維新後の新政府の信仰としての国家神道を支えた「記紀神話」に基づく演目が並ぶということに対しては、やや違和感も感じられる。神仏習合とは言えども、修験道と国家神道では、信仰の形態は異なっているのではないだろうか?

推測に過ぎないものの、もしかすると明治維新以前は修験道的だった神楽の演目は、明治維新後の国家神道に合わせ、国家神道に基づいた「記紀神話」に適応した内容に変化していったということはないのだろうか?などとも考えてしまう。

早池峰神楽を伝承してきた岳地区は早池峰山直下の田畑がほとんどない地域であり、早池峰修験に関わることで生計を立てていたため、維新で修験道が消えた後、神楽を演じて他の地域を回ることが収入を得るための重要な手段だったとも言われる。

江戸時代以前は信仰に関わる格式の高い地域だったにも関わらず、修験道の衰退が、即、岳地区の生活の困窮に直結した可能性もあり、その中で、神楽を失うことがないよう、当時の国家体制に併せながら演目の内容を変えた、ということはないのだろうか?

もちろん、このような考えは単なる妄想に過ぎず実態はわからない。もしかすると、想像とは反対に、記紀神話に基づく演目が当初から連綿と続く形で、そこに、権現舞のような修験道的な演目が後から追加された可能性もあるのかもしれない。

どちらにしても、現代では神楽の演目にもある種の神仏習合が見られ、今では、そういった様々な信仰の変遷の痕跡を探すことは難しくなっている。

早池峰神楽に限らず、維新以前に存在していた神道とも仏教とも言えない、或いは両面を兼ね備えた、神仏習合的な信仰は、明治維新によって大なり小なり形を変えざるを得なかったのではないだろうか?

ある信仰は様式を変えて精神だけが残り、ある信仰は様式も精神も変質しながら、様々な形で生き残り、或いは、生き残ることができずに消えていったのではないだろうか。

賢治が生きた時代は、そのような信仰の混沌とした状態にあったように思われる。

【写真は、花巻市大迫地域の早池峰岳神楽の公演ポスター】

(続く)

2024(令和6)年5月3日(金)


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