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自由と制限とパターンについて

福祉サービスを10年近く利用させて頂いて、色んな精神疾患の方と関わり、その中で新しいことに気が付きました。

精神疾患は無数のパターン化されたイレギュラーな選択肢のひとつだと思うことがあります。

人によって症状は様々ですが、ある程度の傾向がはっきりしてないと病名はつけられません。

そして病気に無自覚でいる人が多いのは、精神疾患がどんな苦痛で大変なことであろうと、その人にはよく起きる事象だからだと思います。

おかしいなと思っていても、客観性のあるパターンを提示してもらわないと、自分は病気の傾向があるとは分からないと思います。

客観性がないと、いつまで経っても治療は始まらないと思います。

精神疾患の治療は、まずは自分を知ることから始まるんではないか?と思いました。

そして、そんな自分をまずは受け入れて、その後の対処をどうしていくのかを考えることが必要だと思いました。

そして、何よりも重要なのは社会との向き合い方です。

社会生活を送る中で、何らかの支障があり、役割を果たすことが出来ないから福祉サービスを利用するんだと思います。

社会を変えていくのは困難です。
現実的だとは思いません。

だとしたら、既存の環境にどうやって折り合いをつけて社会参加していくか学ぶしかないと痛感しています。

それは命令ではなく、あらゆる可能性の模索だと思います。

福祉サービスは良くも悪くも、生活支援の領域であると感じました。

生活支援の領域なので、その人の生活水準を最低ライン保つことが、今の福祉の精一杯だと思います。

じゃあ、これからどうすれば本当の意味で治療が進んでいくのかを考えてみました。

まず自分を知ろう。ってことなので、教育的な要素を広く取り入れるべきだなと思いました。
特にネットの使い方を基礎から理解することで、生死をわけることに繋がってくるとも思います。

情報があるだけで、安心できるし、生活困窮しているなら行政に助けてもらえるかもしれません。
何よりも、沢山の選択肢を目にすることで客観的に自分と向き合える瞬間が増えると思います。

僕の前にお世話になったグループホームの入居者の方は、何かを制限されると自由を求めてました。
しかし自由に放っておけば、制限を求めます。

自走する(出来る)ようになることこそ、福祉にとって必要な教育なんじゃないかなと思いました。

自走するために必要になってくるのは、あらゆるリテラシーを学ぶことだと思います。
それは思いやりや、優しさといった目に見えない、視覚化しづらいものよりも、遥かに重要なものだと僕は思っています。

福祉サービスに従事されてる方はよく言います。
利用してる方の意思を尊重したい。
それは、とても感謝するべきことです。

ただ利用者の意思を尊重することも大切なことですが、もっと尊重すべきなのは利用者が自分の意思で選べる選択肢を増やすことからだと思います。

それに必要なのは読解力で、利用者に勉強の仕方を学ぶ機会を作ることではないでしょうか。

自分で選んで、自由に社会生活が送れていれば、そもそも福祉サービスを利用しなくてもいいんじゃないかなとも思います。

自分をよく知り、学べる環境が出来れば、福祉サービスがより具体性を持った業界になるのではないかと思いました。

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