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グレード論 その1

いくら消費を続けても満足はもたらさないが、消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激になっていく。しかも満足の欠如が強く感じるようになる。
「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

いきなり「暇と退屈の倫理学」という哲学書の一節を引用してみた。最近話題の本書を読んでたところ、ふとボルダリングにおけるグレードについて考えるに至った。その考えを言語化したので、お暇な方は是非ご覧いただきたい。

はじめに:
ボルダリングの私的な原初体験

僕がボルダリングを始めてかれこれ10年以上経つ。ボルダリングとは秋葉原で出会った。ホールドを精一杯保持りつつ、僕はその地でパンプした。

率直に楽しかった。その後、調べてみると運良く家から歩いて行ける距離にジムがあった。だから翌週には品川埠頭に赴いていた。こうしてボルダリングにハマったわけだが、当初は純粋に課題を楽しんでいた。

いつからか課題そのものよりもグレードに自然と目がいっていた。外岩にも行くようになり、初段を落とすことに執心する。次第に初段はコンスタントに登れるようになった。そうすると次は2段、さらには3段とグレードを追う。

人間、ステップアップしたいという欲求は多くの人が抱えているので、これはある意味自然な流れなのだろう。

グレード更新のご報告

「グレード更新しました!」というご報告はSNSでよく見かける投稿の一つだ。これ自体、「おぉ、素晴らしいですね!」と称賛できるものもあれば、何となく生理的に受け付けないものもある。また、「年間何段登れました」といった類の報告もある。

こういう投稿で重要なのは何を登ったかではない。重要なのは、どの位のグレードを登ったかだ。加えて時間的な要素も大事にされている。

例えば高難度のグレードを何tryで登れたかとか、何dayで登れたかとか。また、年間100段とかクライミング歴半年で初段といったのも、グレードと時間を重視している。要は高難度のグレードを短期間で登ったことに価値が見出されている。

グレードとは

グレードは課題の難易度を表し、ボルダリング界では初段以上のグレードを登る人は有段者としてそれなりの実力があると観念されている。五段を登る人間は超人で、神レベルとも考えられている。

このようにグレードは、その課題を登った人の登攀能力を一般化して表す記号であり観念となる。要はその人の具体的な強さ(指が強いとかボディが強いとか)とか、何の課題を登ったかとかは脇に追いやられて、抽象的な強さがグレードによって表示される。

なぜ人は短時間で高難度のグレードを求めるのか?

答えは簡単で、自分の強さを外部に表す観念を手に入れるためだ。グレードを短時間で手に入れることで、「他人に対して、高難度のグレードを短時間で登ったという事実を伝える権利」を得ることができる。

お買い得課題とは本当に上手い表現である。高難度グレードだが簡単な課題を登ることで、友人やフォロワーに対して自慢をするための権利を低額(=時間という貴重な資源をかけない)で得ることができることを端的に表している。

グレードを消費する

人は物に付与された観念や意味を消費するのである。
「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

哲学者の國府功一郎は物に付与された記号や観念を受け取ること(=買うこと)を「消費」と表現する。

グレードを追い求めるクライマーは課題そのものから得られる興奮や快感を求めるわけでなく、その課題に付与されたグレード(=観念)を受け取っている(=消費している)わけだ。

手に入れたグレードを用いれば、他者に自分の強さを誇示でき、自分の奥底にあるコンプレックスのようなものを癒してくれるだろう。

だが癒しの時間は長くは続かない。冒頭引用したとおり消費は際限がない。いつまで経っても満足の欠如から抜け出すことはできない。そのうちグレードを消費することに疲弊するだろう。

例えば貴重な休日に外岩に行き、自分の望み通りのグレードのついた課題が登れないとどうなるだろうか。自分に苛立ち、そのグレードを登れるまでの時間がひどく退屈になる。

また、グレードを消費する目的は他人への承認欲求を満たすためだ。しかし、その他人が自分よりも高難度のグレードを登っていたら自分は更に高難度のグレードを登らなくてはならない。

上を見たらキリがない。頂上にいるのは楢崎智亜だ。承認欲求を常に満たすために登るのであれば、そこまで行きつかなくてはならない。それか自分より登攀能力が劣るクライマーを見つけてグレード自慢によるマウントを取るかのいずれかだ。

前者はパンピークライマーの僕には到底無理なことだし、後者はその瞬間は満足できても最終的に残るものは虚しさだけだろう。サステナブルな満足はいつまでたっても訪れやしない。

贅沢なボルダリングに立ち戻る

グレードを追い求め、消費し続けることはよしたほうがよい。この当たり前ながらも、しばしば陥りがちな結論をまわり口説く論じてみた。

だいぶ長くなったので、一旦筆を置き別稿にて、「グレードを求めず、ボルダリングに何を求めるのか」を改めて考えてみたいと思う。

補足

近年、課題ではなくグレードを売るクライミングジムが登場した。どことは言わないが某ロッキーやノ某ロックなどだ。

グレードを消費することは半ば中毒性があるので人は集まる。満たされないからこそ、またグレードを消費しにいく。こうしてグレードを消費するリピーターが出来上がるので、経営的にはグレードを売ることは正解に違いない。

ただ、クライミングの本質的な楽しさをこういったジムは提供しているのだろうか。そんな価値を提供する気はさらさらないということであれば納得なのだが、生涯スポーツと言われているクライミングをそのような形で提供するのは幾ばくか罪があるようにも感じる。