グレード論 その2
2023年1月、僕は指をパキッた。2ヶ月間、ほぼ登らない生活を続けた。3月、久方ぶりに外岩に行った。場所は恵那の里エリア。久しぶりだもんで、とりあえずトポに10級と書かれた課題をアプローチシューズで登る。案外、面白い。
次に6級の課題。アプローチシューズでは登れなかったのでクライミングシューズを履く。クライミングシューズの性能の高さに改めて気づく。面白い。5級の課題で強傾斜の気持ち良い課題も登る。バシバシしててなんか面白い。
その後も里エリアを上に散策しつつ、今の自分にちょうど良いやつを触る。程なくしてクロコダイルという課題に出会った。
スタートが悪い。それに増してマントルがやたら難しく感じた。下地は良いが不意落ちはしたくない。何度かトライしてようやく登れた。怪我はもう懲り懲りと思いドキドキしながらマントルを返した瞬間、緊張から解放された脳みそがドーパミンらしきものを大量に流してきた気がした。
ボルダリングの楽しみ方
ボルダリングの面白さはなんだろうか?
人それぞれだと言えばその通りだが、あえて僕はボルダリングが与えてくれる「緊張」と「弛緩」こそが、この運動の楽しさだと定義したい。
落ちることが許されない状態は緊張を生む。マントルを返した瞬間にクライマーは安全の状態を得る。それまでの緊張状態が一気に弛緩する。
ハイボルや下地の悪い課題であればあるほど、緊張感は増す。大袈裟だが死を覚悟するに近い状態であればあるほど、興奮は絶頂に至る。マントルを返し、緊張から、そして興奮から解放される瞬間、そのときに待ち構えているのはもはや射精と同レベルかそれ以上の快感だ。
僕がクロコダイルで得たドーパミンはこの緊張と弛緩が生み出したものと思われる。ちなみにグレードは二級だ。
グレードからの解放
僕は大した強さはないが自分なりにグレードを追い求めていた。ここ数年、外岩に行ったら初段以上しか触らない。段以上の課題でアップして、絶対に一本は初段を登ると意気込んで、毎週岩場に行っていた。
パキる前は4段をトライしていた。バラしはできていたが登りきれず、その日はトライをやめた。でも登り足りなかったから2段の課題を一本登った。それでもまだ満たされなかったから、もう一本、3段ぐらいの課題を登ろうとした。その課題でパキッた。
この時、僕はグレードを消費してた。4段が登れず満足できず、2段を登っても満足できず、もっとたくさんのグレードという記号をお買い上げしたい。こんだけ登れたんだよとアピールしたい。そんな衝動に駆られていたから怪我したのだと思う。
クロコダイルに戻る。
怪我がなければこの課題を触ることはなかった。怪我をしたことで一旦、グレードから距離を置き、良質な課題で緊張と弛緩を久しぶりに体感する。グレードに囚われていた自分が解放された気分だった。これこそが贅沢なボルダリングであろう。
グレードの存在意義
緊張感は、自分にとってちょうど良い難しさの課題で得られるものである。簡単すぎれば緊張する暇もないし、難しすぎるとそもそも緊張を得られるまでのゾーンに至らない。自分に適切な難易度の課題を選ぶことは、ボルダリングで快を得ることの必要条件だろう。この適切な難易度の課題を見つけるにはどうすればよいか?
グレードを見ればよい。至極単純な答えだ。自分にとっての限界かそうでないかのギリギリのグレードの課題を選べばよいのだ。
人生は短い。世に転がる無数の岩を片っ端から登り続けて、緊張を得られる課題に出会うには時間が足りなすぎる。グレードは効率的に適切な課題を選ぶためのツールとなる。これこそが本来のグレードの存在意義なのだと思う。
グレードは適正に設定されるべきだ。甘すぎるのも辛すぎるのも良くない。なぜならその課題の難易度を適切に把握できなくなるから。そういう意味ではジムで甘すぎるグレードをつけたり、逆に辛すぎるグレードをつけるのも、僕は反対である。
結論
そろそろ結論に入る。
僕はボルダリングの楽しみを緊張と弛緩と定義する。自分の限界近辺で落ちそうになる緊張をフルに感じつつ、登りきる時の快感。この時のためにボルダリングをする。自分にとって難しく、リスクの高い課題を登りきれた時の感覚は時が経ってもまだ覚えている。動画を見返せばその時の興奮が蘇る。
僕はこれをやりたいんだ。この悦びを得るために僕は課題を登り続けたいんだ。この過程で僕は限界グレードを自然とトライしていきたい。グレードは課題を選ぶときにただ単に参考しながら。
これを続けてけばおそらくは自然とグレードが更新されていくはずなんだ。それがグレードと自分のあるべき姿なのだと僕は思う。