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潮路

【はじめに】

東日本大震災において実家が被災し、東京から宮城に行くまでのこと、仮設住宅で家族と半年間だけ暮らしたこと、東京に戻ってから思うことなど、2011年から2023年までの日記をまとめています。
被災の様子やショックを受けた描写などがあります。

【登場人物】  
私   東京で演劇をやっている
幼馴染
友人A 友人   
友人B 芝居仲間   
友人C お芝居の先輩・目上の親しい方

※実際の日記では個人名を書いておりますが、人数が多すぎるため表記を上記のようにまとめています。幼馴染や友人ABCは数十人いる中の一人という感じですので、同じ人はほぼ出て来ないのもとして読み進めていただいて結構です。 

・2011年4月以降の内容を有料としております。
・同内容の冊子を文学フリマ等で販売しています。

2011年3月

2011/03/13 
3月11日に地震が起こる。私は西新宿の高層ビル28階にいて、だいぶ揺れたけど死ぬとは思わなかった。休憩室のテレビで津波が押し寄せる映像が流れてた。どこの地域なのか分からなくて、なんとなくそれ以上の事は考えないようにしてすぐその場から離れた。震源地が宮城県沖でも津波?来ないと思っていた、大丈夫だろうとタカをくくっていた。

帰宅命令が出て西新宿から歩いて帰る途中、母親と弟にメールを送ったけれども返信がない。不安が大きくなりながら18時すぎに帰宅し、パソコンをつけたら仙台空港の津波映像がすぐ出てきて「まじでー」って声をあげた。実家は大丈夫だろうってものが崩れた。
けどすぐに「きっとみんな逃げてる」と思った。父や弟は仕事だろうし家に戻ってなければ大丈夫。でも家には祖母がいる、祖母は母が避難させたかな…。不安で実家近くの情報を探して確認していく度に、被害の大きさと岩沼市沿岸の状況から、生存は絶望的ではないだろうかと何度も涙を流した。
両親の携帯のコール音が鳴った事は救いだった、けれど電話に出ない事がより不安だった。充電がないのかもしれないし、連絡が来るのを待つ事しかできなかった。

11日の夜は横になっても眠ることはできず、パソコンの前に戻って情報を探し続けた。近隣施設の避難情報や避難者名簿など調べても分からないことが多く、「生きている」という確証が得られない度に、胸に黒いモヤのようなものがかかって重く痛み続けた。心が限界に達すると破裂するように声をあげて泣いた。1~2分泣くと胸にあった痛みや黒いモヤのようなものは消えて、やっぱり泣くことはストレス解消になるんだと思いながら、またパソコンの前で情報を探した。どのくらいの間隔か覚えてないけど、胸がつぶれて号泣するのが限界のサインで、泣いてスッキリするとまた情報を探す。それをずっと繰り返していた。頭の片隅で「こうやって人間は壊れていくんだな」と浮かんだけれどすぐ消えた。

翌日になっても「パソコンの前で情報を探し続けては泣く」ことを繰り返していた。時折来る友人たちからのメールは本当に助かった。返信する時はその人たちの事を考えるので少しだけ不安から意識を遠ざけることができたし、気丈にメールを送ることで現実も気持ちを強く持てた。
まあそれでも限界が来ると声をあげて泣いた。家族との会話を思い出しては心がつぶれていく。頭の中では「私が諦めてしまってはいけない、もし今、たった今、命の瀬戸際だったとして、私だけは絶対に家族の生存を信じていなかったらダメじゃない?」生存を信じて冷静でいなければという考えと、つぶれていく心とせめぎあっていた。  

13日の午前2時ごろ、ふと「あ、大丈夫だ」と心が軽くなって眠りについた。あれは何だったのか…何かの記事かコメントを見たのか、何に納得したのか覚えていないのだけど安心を得ていた。
そして朝5時に父から電話がきた。
「もしもし、お父さん」
「お母さんもばあちゃんもいる、弟は別のとこにいる、こっちまでこれない 家なくなったよ」
「見たよ、流されちゃったんだよね」
「うん、じゃあ電源なくなるから」
「うん」
ケガしてないかとか、落ち着いたらもう一度連絡してとか私の連絡先メモとか伝えそびれてしまった。けれどよかった。よかった生きていてくれて本当によかった。家はなくなっちゃったけど。今すぐにでもみんなを抱きしめたい。その後も地元の友人達と連絡が着いてよかった。ああほんと気を張っていたな。まだまだこれからも不安だけど、今日は休もう。  

2011/03/17 
16日の朝に弟と父と母と電話をする。
3人は母の実家にいるそうです。祖母だけは祖母の実家へ。会いたい。母が涙声で「車の鍵しか持っていなくて、何にもなくなっちゃったよー」と言っていて、本当に本当にショックだった。
私は映像や写真で災害の様子を見て故郷の悲惨な状況を受け入れようとしていたけど、家族が悲しみ苦しみ嘆く姿は、それは、全く別物で。
命だけでもあってよかったなんて言葉も(きれいごとで、その場だけの実感のない言葉なのかもしれないし)励ましになるのだろうか、一緒に「そうだね」って泣いてしまえばよかったんだろうか。とか、私も困惑してしまった。相槌をうつ事しかできず、何も言えなかった。
悲観しないで欲しいが無理に前を向く必要もない、ゆっくり自分を大切に今をまず生きてほしい、それを今近くで支えてあげられない事(近くにいたって何もできない事も分かってる)、何もできないと思う事ばかり。

予定していた演劇の公演もある、上演はする大丈夫。みんなと恐怖の共有をしてしまって、私は「生きている」という安心を得たけど、そうでない人は「失ってしまう」という不安にのまれてしまうのかもしれない。あのイメージと作品とどう距離をとるのか。「距離感がある」という言葉ひとつで人を傷付けてしまった。自分の変化に気付けなかったりするし、自分のことも蔑ろにしないようにしよう。

2011/03/18 
今日は幼馴染のお兄さん経由で父の会社から安否確認があり、父と話す。
連絡したはずなんだけどな、と言っていた。いろいろ混乱しているんだろうな。足りないものだらけなんだろうな。と、また不安になってしまったが大丈夫であると信じること。私に出来ることを探す。とにかく体を大事にしてほしい。
観劇をしたけれども、あまり気持ちは晴れない。

2011/03/21
一昨日くらいから風邪をひいたようで、頭痛と咳と鼻水と発熱に襲われる。ずっと横になっていたらだいぶよくなった、気力はない。もうよくわからん。現実味がないとか冷静に考えられないとかではなく、起こった出来事による影響を実感している。
友人Bから出演のオファーを頂いたけれど実家が被災した事を理由にお断りをした。

2011/03/28  
4月公演の脚本が完本したり、有無を言わさぬ公演案内をするなどした。公演が終ったら行く、ということになった。
祖母が心配、母も父も弟も早く会いたい。不安が大きい。今すぐ家族と暮らせばそれはひとつの安心だけど、私が安心するだけであって家族の安心には繋がらないかもしれない。役立てる事があるんだろうか。

2011/03/29
稽古はとても楽しい、考えることが楽しい。
でも11日から違う世界で生きている気がする。
みんなそう感じているんだろうか。

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