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完全に純粋なもの(神の純金の教え)

完全に純粋なものとは何でしょうか。
この世界にそんなものは存在するのでしょうか。

たとえば、純金。

純粋な金というぐらいですからね。
100%の金だと思われるかもしれませんが、実は違います。
あくまでも99%近くまで洗練された金のことを純金というのです。

実は100%の純金を作る技術は現在でも存在しません。

製造工程で必ず硬化剤などの不純物が微妙に入ってしまうのです。
99.9%まで金を洗練することができても、100%にはできないということなんですね。

これは霊的な道においても、一つの切実なテーマとなってきます。

神に目覚めた師がやってきて、純粋な教えを授けたとしましょう。
たとえば、キリストがやってきて、教えを与えた。
目覚めた覚者が教えを与えた。

そういうことがありますが、必ずその文化背景が影響してくるのです。
つまり、キリストの教えは「許し」が中心となっていますが、それは当時のユダヤ人にとって必要なことだったのです。

たとえ話も、基本的には当時の時代に合ったものが選ばれています。
神・真理を純粋に語るだけではなく、当時の人たちに必要なことが下地にあるのです。

キリストは神の光の体現者で、とても純粋な教えを授けたと思うのですが、どうしても当時の文化背景で、当時の人たちが理解できるような「たとえ」を用いざるを得なかったということです。

100%純粋なものにならない理由がここにあります。

さらに時代が下ってくると、色んな人の考えが教えに混在するようになります。
そうして、仮に99%の純度の教えがあったとしても薄れていくのです。

99%から80%、50%、さらに10%以下の純度になったとしたら、どうでしょうか。
もはや、それは本来の教えとはほとんど異なったものになっているかもしれません。

これはキリスト教に限ったことではなく、仏教でも他の宗教でもあることでしょう。
そうして、混雑物だらけになった教えは、もはや何の役にも立ちません。

邪気が入り込み、人々の自我を増長させるものでしかなくなったりするのです。
気づいたら、悪魔と繋がっていて、死後の世界では下にいるということもあります。

しかし、もしも本来の教えがあったとしたら、どうでしょうか。
神から直接授かったような教えがあれば、人は真っ直ぐに神の境地に至れるのではないでしょうか。

このようにして、私は純粋な教えの必要性を感じていました。
教えというよりも、神の真実とも呼ぶべきものです。

誰の考えも介在していないもの。
どんな文化背景にも属していないもの。

100%の純金などありえないように、通常の論理で考えていくと、そんなことはありえないと思われるかもしれません。
必ず、人を介してしまうからです。
伝言ゲームのように人から人へ伝わっていく間に、最後にはまったく違うものに変質してしまうのです。

「100%、純粋な教えなど存在し得るのか」
「それすなわち、究極的なまでに神に真っ直ぐに至る道になるのではないか」

このような問いと難題を解決してしまう出来事がありました。


最近、私が考えていたことがあります。
神が完全であるならば、その完全にどうしたら近づけるのだろうということでした。
完全な師になるためには、どうすればいいのだろうと考えていました。
(神の光を体現する完全な師になるためにはどうすればいいのだろうということです)

様々な瞑想やヨガについて学んできました。
そのどれもが優れた宝石のようなのですが、私の「完全」というテーマには即していませんでした。
ぴたりと合うようなものではありませんでした。
相応に霊覚が開けたり、何らかの能力が身に付くということを求めていたのではありませんでした。

完全な存在(神)に属するのは何だろう、と考え込んでいたのです。

宇宙全てが神だとしても、その完全を悟り得るのは何か。
私の高い基準に相応しいものが直観的に見つかりませんでした。

仕事を片付けて合間にできた時間で、時に瞑想したりしていました。
それでも、答えが見つかりませんでした。
探しても見つからないというのもわかっていました。
そんなことを誰も知らないし、知るわけもなかったのです。

地上の全ての本をかき集めても、どこにも書かれていないこと。

ふと、まったく全然関係のない事が思い浮かんだのです。
なんで、そう思ったのかは本当にわからないのですが。
私はつぶやいたのです。

「ババジって、どうしているんだろうな。ババジって不死身と聞くけど、地上にずっと居続けるのは大変じゃないか。地上は修行の場で、何百年、何千年と地上で生き続けるのは苦行でしかないんじゃないか」

※ ババジとは、「尊い父」「聖なる父」という意味しかありません。
お父さんぐらいの意味しかないので、誰でもババジを自称できます。
インド人で自分がババジだという人が山ほどいるけれど、それは「お父さん」という意味でしかありません。

私がここでいう「ババジ」とはまったく別の意味で、不死身の大師として知られる方です。
「あるヨギの自叙伝」の著者ヨガナンダの師匠の上師のさらに上の師です。
現代にクリヤヨガを復活させた神に目覚めた師です。

私は見えない力に突き動かされるように独り言を話し続けます。

「ババジはどう考えているんだろうな。神様に不死身の身体にさせられたと聞くけど、どういう意味があってそうなったんだろうなぁ」

なぜか、ババジのことを思い出したようにつぶやいて考えていました。
すると、翌日にとある瞑想を教えた人の瞑想中にババジが現れたというのです。
その人に何も話してなかったのに突然現れたというので、直感的に本当に来たのだとわかりました。

噂をすればなんとやら。
ババジが何かのメッセージを持っているのではないかと思いました。

「ババジが現れるなんて、よっぽどだな」

彼はなかなか現れない師です。
興味本位の野次馬に応えることがなく、誠実な求道者の元にすらなかなか現れることがないです。
山ほど会いたがっている人がいるだろうにそれを押しのけてくるなんて、尋常ではないと感じました。

早速、私は瞑想に入ると、ビジョンの中にババジが現れました。
日々のことを懺悔しながら、正直に私が思ったことを聞きました。

普段の雰囲気で、砕けた感じで質問しました。

私「不死身の身体になって、逆に大変じゃないですか。霊的な辺境の星ともいえる地上(地球)に残り続けるなんて、苦行でしかないと思います」

それに対して、ババジは「私には役割がある」と告げた後に、こう続けました。

ババジ「人は神を忘れがち。その楔(くさび)として、私はここにいる」

一本の杭のようなものが弧を描いて、地上に打ち込まれるイメージが見えました。
その杭は神と人のつなぎ目でした。
それがあればこそ、人々は神に至る道を歩めるのです。

とても、ありがたいことだと感じました。

不死身の身体になってまで、人々を導き続ける道標としているなんて。
想像を絶するような苦行を実践されながら、人々が神に至る道を繋ぎ続けているのです。
何百年も何千年も。
私なら耐えられないほどの重荷を背負う姿に神の慈悲を感じました。

しかし、この対話のためだけに彼が現れたのではないとわかっていました。
他に神のメッセージがあるということを直感していました。

単刀直入に私は聞きました。

私「神の意志を伝えるメッセージがありますか。あるいは、あなたの言葉がありますか」

ババジ「あなたが完全な師になるために、3つないし7つの瞑想が与えられる」

ずっと聞きたかったことが告げられました。
全部、私の思いは神に聞こえていました。

私「完全な師とは、あなたやキリストのような物質や死さえも超克できるような師ですか」

ババジからは「なれる」という強い意志と平安な気持ちが伝わってきました。

私「どうすれば、その瞑想を知れますか?」
ババジ「神にへりくだって聞くこと」

続けて、このように告げられました。

ババジ「その瞑想は神から与えられる純粋な黄金や宝石のようなもの」
私「どうか、それを感受できますように」

ババジとのやり取りはそれで終わりました。

私は100%完全に純粋な教えを望んでいました。
究極的なまでに純粋な瞑想ともいえるようなもの。

それこそが、私を「完全にする」とわかっていました。
それは人を介さずに伝えられるものでないといけませんでした。

もちろん、その完全な瞑想を伝えるのはババジでも、キリストでもありませんでした。
神以外にありえなかった。
完全に純粋なものを求めたので、この人から教わったというものでもいけませんでした。

特定の人物や特定の文化、特定の宗教や団体に決して属するものではない。
地上のものでもないもの。

完全なものを望むならば、神から直接聞く必要がありました。

「神にへりくだって聞くこと」

この言葉の通りだと思いました。

今回、ババジはあくまでもメッセンジャー役です。
私の人生は、クリヤヨガの流れとはまったく違った進化の過程を表すものになります。

「巡礼者の数だけ道がある」

私の道は、その一つとなることでしょう。
最も純粋で真っ白な花道となりますように。

神から直接聞いてこそ、完全に純粋な道を得られます。
誰も介さずに、神から「直接」得られたもの。

純粋すぎて一瞬で溶けてしまうような雪のようでもいいです。
どれほどわかり難くとも、私にはそれが相応しいです。

実は幼少期からこの宇宙全ては幻想だと感じていた。
この宇宙のあらゆる出来事は儚い映像表現のようなもので、確かな現実だと信じていなかった。

困難の中で、神だけを信じた。

私の人生の根底にあるもの


私は深い瞑想に入って、神に直接聞くことにしました。
神意識の無限の光の中に入っていくと、次々とその瞑想が明かされました。




・神の至純の瞑想

「純粋であればあるほどに形をとどめることがない」

黄金は純度をあげていくほどに柔らかくなっていくことをご存知ですか。
不純物がなくなるほどに硬さもとれて、その代わりに強度もなくなっていきます。
99.9%以上の純金は装飾品として使い物にならないぐらいに柔らかいです。

これは神の純粋な教えにも似ている。

形を超えた神を悟る瞑想には、形というものがありません。
マントラもなく、姿勢もなく、決まった体系すら存在していません。
正直に言うと、言葉にするのが難しいです。
よって、誰かに簡単に教えられるものでもありません。

私が神から教わった瞑想は、雪解けのように柔らかく溶けてしまうものでした。
触れた体温でなくなっていくかのようなものでした。

そのまま教えることはできず、本当は核心部分を言葉にすることもできません。
しかし、それを承知した上で書くことを許して頂きたいです。

その一端だけでも伝われば十分です。
ヒントや手掛かりだけでもいいから、地上に書き残しておきたいのです。
今後の探究者がいつか再発見して、その道を歩むかもしれないからです。

アドバイスを付け加えると、行を進めた人が最後にするのがオススメです。
私は生徒に教えることはあっても、弟子をとりません(とれるほどの人間だとも思っておりませんので)
しかし、もしも弟子を育てることがあったら、最後の最後にこの瞑想を授けます。

これが最上位の瞑想になることでしょう。
パズルの最後のピースになります。

もちろん、人それぞれ神に至る方法は違います。
一つの道として、私に合ったものがこのような純粋な瞑想として授けられたと感じています。

神から直接明かされた瞑想は三つです(のちに七つ目まで聞き出しました)
私はそれを「神の至純瞑想(しじゅんめいそう)」と名付けました。
最も純粋な瞑想だから、至純(しじゅん)です。

三つの瞑想には、三つの段階があります。
一つ目は、神の完全性を味わう(三昧)
二つ目は、神の完全性と自分が同じだと悟る(同一化)
三つ目は、いかなるときもその完全性を感じる(日常化)


この瞑想の一つ目の段階は「三昧(ざんまい、さんまい)」で始まります。
わかりやすく言うと、〇〇三昧(例、読書三昧など)のような何かに没頭するニュアンスでもこの言葉を使っています。

神の完全性を深く味わうのです。
それは最高の瞑想かつ集中状態でもあります。

伝統的なヨガは「三昧(サマーディ)」が最後の到達地点とされています。
しかし、この純粋な瞑想はそこから始まります。
その先の完全まで歩むためのものだからです。

それでは純粋なる瞑想の一端を書き記します。

・最初の瞑想前の準備
まず、はじめに神意識との繋がりを感じます。
瞑想でも祈りでもいいので、神と深く繋がっていきます。
私は以下のように祈ったりして、深い繋がりを感じます。

祈り「神よ、あなたを純粋に悟れるようにしてください。究極に純粋で完全な教えを与えてください。あなたの力で完全にしてください」

祈り、深い瞑想の中で、神に至る霊的な階段を上っていき、無限の光の中に没入します。
神の原初の意識に至ります。
神・ロゴス(キリスト意識)・聖霊の瞑想でも、それは可能です。

神の無限の光の中で、次の瞑想に入っていきます。
そこで、完全性を感じ取れます。


1 神の完全性を感じる瞑想(三昧)

「神の完全性を瞑想しなさい」
一つ目の瞑想では神の光の中に入って、完全性を感じます。
完全性(絶対性)を味わっていきます。
味わっていくことで、次の段階の「同一化」に自然と入っていきます。

※「」は神の言葉です。
「神の完全性を感じなさい」という言葉も何回も聞こえてきました。
その言葉を聞きながら、神の完全性を味わっていました。
それは宇宙全てでありながら、全てを超越する全体感覚のようなものです。

2 自分自身が完全性だと悟る瞑想(同一化)

「あなたが完全だったと知りなさい」
完全性を味わっていると、自分の本質もそうだとわかってきます。
自分も神も本質的には同じ存在であり、完全性そのものだと感じることで同一の存在だと悟っていきます。
段階的にそうしようと思うのではなく、自然と一つ目の瞑想を味わうことで同一化が起きます。

☆瞑想の感覚
神の完全性を瞑想して、それそのものになると「絶対安心の心境」に至ります。
何一つ欠けることのない充足感です。


3 いつも完全性を感じる瞑想(日常化)

「いかなるときもあなたが完全であると味わいなさい」
完全性を味わって、それそのものになったら、あらゆるときでも感じるようにすること。
日常的に自分は神と同じように完全だと感じることで、神との一体状態を絶対的なものにしていきます。
そうして、神性を確固たるものにしていくのです。


さて、以上が神に直接明かされた三つの瞑想です。

深い瞑想状態に至れば、神の完全性を味わうことができます。
そうしようと思えば、それができる段階に達して、三つの瞑想の言葉は役立つことでしょう。
これだけを読んでも、シンプルすぎて何のことかわからない人もいるかもしれません。

あらかじめ、「3つないし7つの瞑想が明かされる」と告げられていました。
現在、7つ目まで明かされていますが、今のところ3つ目までを書いておきます。
自分を神と同じように完全な純金に変えていくための瞑想です。
驚くほどにシンプルですが、完全性を味わうと究極的です。

100%の純金のような瞑想です。

今後、神を完全に理解できるように、この至純なる瞑想を実践していきます。
さて、神に直接明かされたこれらの純粋な瞑想を最上位に位置付け、今後はそこに至るまでの体系を書いていきます。

ガネーシャ・ヨガの体系から聖霊の体系まで。
他にも伝統的な技法はあります。
いわゆる「三昧(サマーディ)」に至るまでの道のりを簡潔に書き記します。

ざっくりとヨガの本質的な部分に切り込めたらと思います。
次に書いていく記事があるとしたら、神との繋がりを感じられない入門者からサマーディにまだ至れていない中級者のためのものになると思います。

今回の記事は、神の純粋な教えを表したものなので、雪解けのように溶けて誰の役にも立たないかもしれません。
そもそも言葉にできないことを言葉にしています。

されど、神の波動を込めているので、準備のできた人は読んだだけで、神の純白の境地に至るかもしれません。
たとえ、誰の役に立たなくとも、存在(神の交流)の記録として書き残しておきます。


次の記事は入門者向けなので、多くの人の役に立つものになると思います。

お楽しみに。