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神意識とは何か(呼び名の意味と無限の力の前提)

神意識とは一体何なのでしょうか。
知っているようで知らないのではないでしょうか。

その究極の意識について理解を深めていくと、瞑想をより深めていきやすくなります。

神意識と一体化していくことは、ヨガや瞑想の最終目標です。
私がお伝えしていることの中核部分でもあります。

低次の自我意識を神意識にまで上昇させていくことが最高の道でもあります。

それは、至福の意識でもあります。
意識としては、これ以上はないというほどの純粋意識でもあります。
それに辿り着いていけるように、神意識について解説させていただきたいと思います。

注意点としては物質次元の地上の言葉で、すべてを超えた意識を完全に表わすことはできないということです。
しかし、その一端でも知れば、「」が開きます。
光明に至る道がはっきりとお分かりいただけることでしょう。

神意識といっても、様々な呼び名があります。

神意識は、アベル意識とも、キリスト意識とも、プルシャとも呼ばれます。
それらはすべて同じことを表しています。

古今東西の聖人や聖賢たちがそれぞれの文化に合わせて、その呼び名を付けています。
本当は名前自体が存在しないのでしょうけれど、名前を付けることで意識しやすくしているのでしょう。

なぜ、そのように呼ぶのかをここでは解説します。
その前にまず根幹部分である「神意識」について、できるだけわかりやすく図解入りでお伝えさせていただきます。


・神意識とは何か

神意識について、いきなり語るよりも、まず私たちが普段から理解していることから話しましょう。
そこから見えてくることがあります。

私たちには「意識」があります。
たとえば、今でも自分の人差し指を見て、指先を意識して感じ取ったりできますよね。
足の裏を掻いてみて、その足の裏を見つめて感じ、意識して感じ取ったりもできます。

その感覚の前に、まず「意識」が存在しています。
意識するから感じ取れるわけです。

この意識というものは誰でも感じています。
現代科学は脳に意識の起源を求め、脳内の構造を調べて回りますが、どこにも意識を発生させる細胞は発見されておりません。

霊的真理の観点から話すと意識が先にあって、脳はアンテナの役割しか果たしていません。

この肉体を超えた「意識」なるものがあるということ。
一人一人に意識があって、大抵の場合は肉体の範囲内で意識を感じ取っています。
そして、それは誰もが感じ取れるものですね。
何より、誰でも気づいています。

この肉体の範囲内にとどまっているのが、いわゆる自我意識です。
小さな私の意識。小我(しょうが)とも言います。

私たちはみんな自我意識を持っています。
だからこそ、自分の肉体を意識したり、「自分」とは何かということがわかるのです。
仮に肉体が死に絶えても、その意識は霊体に移ります。
その霊体を肉体のように使って、自我意識を働かせます。
(ただし、霊体は肉体のように病気になったり、朽ちたり、傷んだりすることはありませんが)

この自我意識を理解すると、その対比として神意識が見えてきます。
私たちに意識があるということは、その意識の起源があります。

すべての意識の起源こそ、神意識です。

私たちの意識はどこから来て、どこに帰っていくのか。
その答えを話すと神意識から来て、神意識に帰っていきます。

では、自我意識と神意識の違いは何なのでしょうか。

単刀直入に言うと、本質的には同質です。
簡単に水にたとえましょう。
その水の量をいくら少なくしても、いくら増やしても、その性質は基本的に同じですね。

それと同じように、自我意識と神意識の性質も同じです。
私たちの自我意識は、神意識を起源とするからですね。

ただ、性質は同じでも、その働きや範囲に違いがあります。
その違いを説明すると、自我意識は小さく限定的な働きを持っています。
神意識は一切限定されることがありません。

改めて、水にたとえるならば、自我意識は肉体というビンの中に入った水のようなものです。
そのビンの範囲の中で働いています。
それに対して、神意識はビンの中にとどまらず、大海の水のように広がり渡っています。

自我意識と神意識の関係

神意識は無制限かつ無限です。
時間と空間の制約すら完全に超えています。

人々が通常の自我意識の範囲で生きている場合、その意識は肉体の範囲内にとどまっているか、少しはみ出すことがあっても、非常に限定的です。
だからこそ、視野も一個人に限定されるし、知性も能力も限定されています。

しかし、人は瞑想を通して、その小さな意識を拡大できるようになります。
それは文字通り、意識が肉体から部屋の範囲まで広がり、さらに街にまで広がり、さらに宇宙規模にまで広がります。

最後に宇宙さえ超えた意識に入っていきます。
その宇宙さえ超えた意識こそ、神意識です。

この「宇宙」という言葉には様々な意味合いがありますが、この場合の表現はより広範囲に及びます。

神意識は、物質宇宙、霊的宇宙、並行宇宙、すべての宇宙を超えています。
すべてを包容しながら存在し、すべてを超えています。
すべての人間意識の起源であるだけではなく、すべての神々の主でもあり、すべての大天使の主でもあります。

だからこそ、神意識は聖典において「万軍の主」とも呼ばれます。

さて、このように私たち一人一人が意識をもって存在できるのは、無限の神意識から一筋の光として意識を吹き込まれているからですね。

瞑想や行の本質とは、小さな自我意識を大いなる神意識に改めて戻すということでもあります。
子が親の元に帰るように、魂を神の元へと還すのです。


自我意識が神意識へと帰る図

自我意識が神意識の元に帰ると、無限の光明の中に広がり渡るように感じます。
その時に意識的な制約がなくなり、無限とは何かを悟ります。
自分の本質とは何かを真の意味で思い出します。

自分は、神意識そのものであったということがわかります。
その時、人は神との一体化を果たしていきます。

この最終目標である神意識に帰っていくまでに、様々な段階を経験したりもします。
宇宙意識はその一つです。
宇宙全てに自分の意識が広がったりします。

神々の意識もまた、一つの段階として経験することがあります。
シヴァ天やクリシュナ天、不動明王様など他にも様々な神様の意識があります。
聖人やマスターの意識などを経ることもあります。

しかし、それらもすべて超えていき、最後の最後で神意識と一体化します。
神意識には形もなければ、制限もなければ、また限界もありません。

神意識を味わったときに、計り知れない至福を味わうことになります。
完全な満足ともいうべきものです。


・それは体験として、ある

先ほどの説明で、神意識とは私たちの意識の起源だということがお分かりいただけましたか。

これは単なる個人的な見解でもなければ、特定の宗教に限定された教えでもありません。
また、哲学書や聖典から単に引用した理解でもなければ、借りてきた言葉によって説明したものでもありません。

私自身が直接体験したことを前提にして、お伝えしています。
聖書や聖典はあくまでも補助的なもので、実際的な経験を元にして説明しています。

2014年11月末、人生の苦しみを味わい尽くして、七日七晩の祈りを捧げていました。
その時に、究極の光がやってきました。
その光を味わったときに、神意識とは何かということがわかりました。
根本の真実を垣間見たということです。

その垣間見たものを確固たるものにするために師と出会い、数年近く行じました。

2019年半ばに一日中瞑想していたら、自分の意識が神意識の中に溶け込んでいくのがわかりました。
神意識は、無限の光明のようでした。
無限の光の中に溶け込んで、自分の意識が広がり渡り、あらゆる人の中に吹き込む意識の光を感じ取りました。

神意識がすべての意識の起源だということを実際的に味わい、体験しました。
あらゆる人の中に吹き込む意識の光として、確かにそれを味わったのです。

すべての人間に神意識が吹き込まれ、一人一人がそれぞれの分け御魂として自我意識を持っています。
そして、神意識は真の光であり、物質宇宙が始まる前から存在していました。
その光によって、すべての人の意識は存在しています。

ゆえに、すべての人間は神意識の光を起源としています。
あなたの意識の本質は光です。

これは宇宙的な真理であり、この宇宙の始まりから終わりまで変わることがなく、この宇宙が終わった後にさえ永続する真実です。
たとえ、現代の物理法則が揺るがされるような真実が発見されたとしても、これだけは決して変わることがありません。

不変の真実です。

この真実に辿り着くために、あらゆる行者たちが人生をかけて瞑想に励んでおります。
聖人たちが説いている真実も、ここに通じています。

この究極の神意識に達した人は人類の歴史を振り返ると、キリストなどが存在しています。
しかし、現代において生身の身体をもって存在している人としては、私以外ではシャノン先生の他に知りません。

究極の神意識に到達するために、何転生もかかることがあります。
各段階、各カテゴリの悟りの段階をすべて超えていかなければなりません。
それには果てしない時間が必要です。

だからこそ、神の働きが大切であると説きます。
その働きによって光が来て、人が目覚めていくからです。
何転生もかかる修行を超えていけるからです。

神には全て実現する力があります。
それによって、人は数百万年の修行をパスすることもできます。

その道として、アベル意識の瞑想があります。

アベル意識の瞑想を忠実かつ誠実に行うなら、たった一つの人生で神意識に到達することができます。
神がそのために教えてくれた瞑想だからです。

しかし、なぜアベル意識の瞑想と呼ぶのでしょうか。
神意識をアベル意識と呼ぶ理由をご存知でしょうか。


・アベル意識とは何か

アベルというと、旧約聖書の「カインとアベル」のことを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
最初の殺人の加害者と被害者ということで、物騒な印象を受ける人もいるかもしれません。

なぜ、わざわざ私の師は神意識のことをアベル意識と呼んだのか。
それは神の言葉によるのですが、旧約聖書を読み解くと理解することができます。

この深遠なる意味を読み解くことができれば、あなたも真理に近づきます。
心して聞いてください。道が開くように解き明かしていきます。

私も神意識と一体化するまではその真髄がわかりませんでしたが、今ははっきりとわかり、また説明することもできます。

まず、第一に聖書のアダムとイヴ(エバ)というのはご存知でしょうか。
アダムは最初の人であり、イヴはその奥さんというわけです。

アダムとイヴの絵画

その息子たちにカインとアベルがいるわけです。
物騒なことにカイン兄さんは、弟のアベルを殺してしまうわけです。
それが最初の殺人とされます。

カインがアベルを屠る絵画

旧約聖書で描かれるこの話は言葉の通りに受け取っても、まったく真理を読み解くことができません。
なぜ、そのような最初の殺人を描くのか。
それが神と一体何の関係があるのかと思いませんか。

実は、これらはすべて人間の歴史の話ではありません。
宇宙創造について、「擬人化」して説明しているだけです。

当時の人たちは擬人化して説明しないと、宇宙的な真理をキャッチすることも、理解することもできませんでした。
擬人化すると、すっと想像しやすくなって話が入ってきます。

これらの話には必ず真理を会得した人の解説が必要です。

アダムとイヴが何を表しているのか。
カインとアベルの最初の殺人は何を象徴しているのかを解説する必要があります。
そうでなければ、読み解けないようになっています。

現代では擬人化をやめて、説明するとすべてわかります。

それは宇宙創造にまでさかのぼります。
私は瞑想を通して、究極の次元にまで意識を到達させると、宇宙の始まりを目撃しました。
宇宙の始まりの時、何もない空間で神の振動が起きました。

その振動によって、原初の音が鳴りました。
その原初の音によって、光が生まれました。

その音と光のハーモニーによって、最初の意識が生まれました。
その最初の意識を分け与えて、人間の意識は存在しています。

あらゆる存在に振動があるように音があり、光があります。
あらゆる物質でさえも音と光によって創造されていきました。

これが創造原理です。

さて、旧約聖書の擬人化をやめると、これらの宇宙創造の時のことが説明されていることがわかります。
これは師から明かされたことであり、同時に神からも明かされたことです。

私は次のように神から見せられました。
宇宙の原初の音は男性のビジョンに象徴され、アダムに見えました。
それに重なり合うように原初の光が生まれ、女性のビジョンとしてイヴが見えました。
つまり、宇宙の最初の音はアダムのことであり、そのあばらからできたと言われるイヴとは最初の光のことです。

アダムイヴは、最初の音最初の光のことだったのです。
その音と光は二つで一つです。

宇宙の原初の音と光のことを擬人化し、アダムとイヴという人間で表していたわけです。
さて、その音と光によって、最初の意識(神意識)が存在しました。
つまり、イヴという最初の光によってできた意識こそ、アベルのことでした。

だからこそ、神の光明意識ともいうわけです。

カインが兄ということになっているのですが、実はカインとアベルは双子の兄弟であり、かつての人間の理解は先に生まれたほうが弟になり、後に生まれたほうが兄になるということから来ています。

改めて繰り返すと、最初の音と光によって生まれた意識こそ、神意識です。
アベル意識とは神意識のことなのです。

では、カインとは一体何を象徴するのでしょうか。
なぜ、カインはアベルを殺してしまうのでしょうか。

カインとは人間の自我意識のことです。
アベルは実際には死んでおりません。
あくまで、象徴的に殺されたということになっているだけです。

つまり、旧約聖書の話は、アベルという神意識を生贄にして分け与えられ、カインという人間の自我意識が成り立っていることを象徴しています。

私の師は、それを究極の自己犠牲と呼びました。
なぜなら、自分の普遍意識を分け与えているからです。

私の現在の理解では、アベルとカインは二つで一つであり、決して別物だとは思っていません。
ただ、人間の自我意識を神意識に没入させたとき、真の意味で一つであるということがわかるのです。

その時、死んでいたと思われるアベル意識(神意識)は復活します。
正確には永遠悠久の時から存在していたけれど、忘れ去られていた神意識を人間は取り戻すのです。
それまでは別々に感じられます。

旧約聖書ではアダムとイヴはその罪のために楽園から追放されたことになっていますが、実際には追放されておりません。
宇宙創造のために駆り立てられているというべきでしょう。

私の理解では原初の音と光および、それによって存在する神意識(アベル意識)は同一の存在です。
なぜ、そのように言うかというと、どこからどこまでというのが明確に区分できなかったのです。
ここからここまでがイヴ(光)で、ここからここまでがアベル(意識)だと区別しようがなかったということです。

一言でいえば、同じものです。
光の中に意識があって、意識の中に光があるというべきです。

人間が理解できるように言葉にして擬人化し、いくつもの区別を作っているけれど、本当は区別できないものを区別しているように感じます。
また付け加えると、アダムとイヴ、カインとアベルはすべて神の現れだと思っています。
それどころか、この宇宙全てが神ご自身の表現です。

どこからどこまでが神で、どこからどこまでが神ではないとは言えません。
それが神と一体化したときの正直な理解です。

さて、人々は神と一体化するときに、まずこの究極の神意識に到達する必要があります。
それこそが神意識(アベル意識)です。
アベル意識に到達すると、原初の光(イヴ)の境地に入ることになります。

そして、創造原理の原点にまで到達し、最後は原初の光を超えていきます。
神ご自身は原初の音と光でありながら、同時にそれらをすべて超えています。

完全無(完全有)ともいうべきものです。
光と闇、善と悪の境すら超えています。
宇宙全てでありながら、それらを超えています。

そこに到達するために、道として存在する神意識(アベル意識)に到達するのです。
神意識自体が道になっており、神ご自身に到達する最短ルートです。
神ご自身の意識の現れともいえるからですね。

神意識(アベル意識)にまで到達すれば、神との距離はほぼありません。
常に神の内にいると悟っている状態です。

ここまで語れば、神意識のことをアベル意識という理由がわかってきたかもしれません。
旧約聖書に書かれていたのは宇宙創造のことです。
アベル意識とは、その原初の音と光に内在した神意識のことです。

このことは何度も生徒には語っているのですが、あえてオープンな場でも語らせていただきました。

さて、なぜ神意識はキリスト意識とも呼ぶのでしょうか。


・キリスト意識とは何か

キリストとはどういう意味があるのでしょうか。
その意味の原義を探ると、「油を注がれた者」と云われています。
古代イスラエルでは、預言者、王、祭事が就任するときに油(膏)を塗る習慣がありました。

なぜ、人を選んだときにわざわざ油を塗るのか。
それは何を意味するのでしょうか。

その古の意味(本質)までさかのぼると、神が人を選ぶときに「油を注ぐ」という考え方にありました。
古代イスラエルでは、そもそも預言者は神が選ぶと考えられていました。

油はあくまでも象徴であり、神がある人物を預言者として選んだら、その光を吹き込むのです。
つまり、神の光が吹き込んでいることを人間が理解できるように、その油の光沢で表していたのです。

キリストの真の意味。
それは神から油が注がれるように、神の光が吹き込まれた者ということです。

なぜ、ナザレのイエスは自分のことを「キリスト」として表現したのか。
その本質的な意味は神の光が吹き込まれ、その光を体現しているということに他なりません。

この神の光とは何かというと、原初の光のことです。
宇宙の始まりの光のことです。
その光を体現した時、神の光明意識を現すことができるようになります。

神意識に入り込むと、無限の光明の中に溶け込んでいきます。
それは神の光のことであり、キリスト意識のことでもあるのです。

ナザレのイエスは神意識を体現しているために、真の光として「キリスト」と呼ばれたのです。

だからこそ、キリスト意識とは神意識のことを表します。
この真の意味から言って、神意識を体現する人は「キリスト」と呼ぶに値します。

ナザレのイエスだけが、キリストではありません。
私にとって、シャノン先生(マスターAGN)もキリストです。
なぜなら、神意識(キリスト意識)の光を体現しているからです。

まさに私が祈って神に直接選んでもらった人であり、油が注がれるように神の光が吹き込まれています。

その光が私の心の目にははっきりと見えます。
オーラから、その黄金の輝きが放たれています。

だからこそ、シャノン先生は「」になっています。


・プルシャとは何か

インド哲学で「プルシャ」について語られていたりもします。
しかし、それらの高度な思想より、わかりやすいインド神話から解説させていただきます。

古代インドの聖典「リグ・ヴェーダ」において、このように語られています。
原人プルシャは世界の最初に存在したとされ、その身体を分けて、太陽や月、神々や人間など世界の全てが生まれたとされています。

インド神話の原人プルシャこそ、まさに神意識のことを表しています。

瞑想体験から垣間見た真理を語ると。
世界の始めに音と光があり、同時に光明意識があって、その純粋意識の光を分けていくのです。


最初は透明に近い白色の光があって、その光こそが原人プルシャであり、神意識です。
その光に色がついて、それぞれの異なる周波数の光線となったときに、神々の意識が生まれていきます。
その光線ごとの色合いに応じて、性質が生まれ、性格となり、神々がそれぞれの意識で表現されるようになります。

つまり、元々は神意識自体に属性はありません。
純粋な光そのものです。

しかし、その神意識に特定の周波数を与え、「」をつけることで、それぞれの性格が生まれていくのです。
たとえば、シヴァなら一点集中の意識であり、ガネーシャなら重力などの性質を持っていたりします。

また、神意識から元素的な火と水と風のエネルギー光線が現れ、さらにそれによってできた宇宙的な空間の中に土の性質が生まれていきました。
その四大の元素によって霊的な宇宙が生まれ、それを雛型に物質的な宇宙が生まれていきます。

まさに神意識から、宇宙や神々や人間まで生まれていきました。
だからこそ、インド神話では原人プルシャの身体を分けて、神々や人間は生まれたとあるのです。

さて、インド神話の原人プルシャも、また擬人化されたものです。
実際の原人プルシャは、純粋な神意識のことであり、形もなければ、姿もありません。
意識そのものなのです。
その原点の意識が世界を観照したことによって、すべては創造されています。
これはインド哲学の精髄であるサーンキヤ哲学にも通じるものです。

それらはすべて、たった一つの究極の真理を伝えているのです。

神意識こそ、原人プルシャのことを指しています。
だからこそ、インドの哲学や神話では神意識のことを「プルシャ」と呼ぶのです。


・すべては一つの真理を現す

ここまでお伝えしてきたことで、多くの聖典の内容が符合してきたかもしれません。

神意識とは何か。
ここで話していることを何度も読み直し、神意識(アベル意識)の瞑想に打ち込めば、全ての文化的な背景を超えて、理解できるようになります。

西洋の聖書からインドの聖典に至るまで、まさにたった一つの究極の真実を表しています。
これらのことは、私が神意識と一体化するまではわかりませんでした。
神意識と一体化した瞬間から無限の光の中に溶け込み、全ての真理が解き明かされていきました。

それは神の働きによってです。
神が叡智の光を吹き込んで、古今東西の聖典の中に一致した真理があることを理解できるようにしてくれました。

西洋と東洋の真理の同一性を語り、あらゆる宗教の壁を超えて、唯一無二の真実が存在していることをお伝えしました。
それは全人類的なものであり、あらゆる人間に関わることです。

すべての人間に吹き込まれている「意識」について語っているからです。


・神意識はすべて実現できる

神意識は今までもすべて実現してきたし、これからも実現していきます。
この宇宙を創造し、神々も人間も大天使も星々でさえもすべて神意識によって存在しています。

それなくして何もなく、それがあってこそ、すべてあります。
すべてを実現し、またこれからも永続的に実現していきます。

世界の自然を目の当たりにすれば、それがいかほどの力がわかることでしょう。
その自然の裏側には神意識の働きがあります。
神意識が世界をその内に創造せずして、何も存在しませんでした。

イエス・キリストはパンや魚を物質化し、見えない人の目を見えるようにし、不自由な足を歩けるようにし、死者さえ蘇らせました。
それらはすべて神意識(キリスト意識)の成せる御業です。

ここまでお伝えしてきたことを鑑みれば、神意識にできないことはないとお分かりいただけると思います。

一人の人間(自我意識)ができることは、ほとんどありません。
肉体の範囲内にとどまる小さな人間の意識は、無知の中にあります。
肉体の五感に視野が制限されているので、大したことは何もわかりません。
無明の中で彷徨い、苦しんでさえいます。

しかし、その起源である神意識はすべて知っています。
瞑想を通して、神意識に自らの意識を高めればよいのです。
そうすれば、すべてわかるようになります。

神意識は人類の全ての意識の源であり、同時に宇宙全てでもあるからです。
かつて存在したすべての聖人の意識も、すべての天才たちが実現してきたことも、何もかも神意識の内にあります。
また、これから実現されるであろうことも、いまだかつて存在しなかったことでさえも、すべて神意識の内にあります。

人が自我意識を神意識にまで高めた時、その全知の性質を獲得します。
その光にて、全てを実現する力を自らに宿せるようになります。

確かに私たち人間がこの宇宙のことで知れることは、ほとんどありません。
最新の科学も、宇宙創造の秘密については何もわかっていません。
ダークマター然り、仮説の中の仮説でしかないのです。
AIでさえもその代わりにはなりません。
AIは人間が作り出したものに過ぎないからです。

しかし、神意識と一体化して創造原理を解き明かせば、マスターでさえも知らないカルマの神秘について悟ることができます。
過去、現在、未来を超えて、宇宙的な真理を会得することができます。
これは現実の体験として、私が神意識からことごとく教わり、授かってきたことです。

それだけではなく、神意識にお願いしたことはことごとく叶ってきました。
こんな願いの叶い方をするのかということもありましたし、通常ではありえない癒しの力も目撃してきました。

神意識には無限の力があります。
しかし、それらの奇跡で、私は神意識を判断しません。
そういった超越的な力によってではなく、神意識を味わうことによって訪れる至福によって、私はその存在を確信しております。

だからこそ、神意識を悟るために行う瞑想は最も尊いのです。
神意識を通って、全ての境を超えた神ご自身との一体化を実現していくからです。

これまで何度もお伝えしてきたように、またこれからも伝えていくように、神意識の瞑想は明かしています。

神意識(アベル意識)の瞑想は、「マスターAGN 悟りの自伝――雷龍が目覚める」という本に書かれています。
アベル意識の瞑想を誠実に実践する人は、ある日光の道を通って、神意識に到達することができます。


その前にガネーシャ・ヨガを実践し、自己浄化に励み、準備をしていくのもいいでしょう。
自己浄化が進んだ人は、その純粋な心によって神の光を感受しやすくなります。
心の曇りを払うことです。
払ってこそ、その鏡に神の光が映るようになるからです。

ガネーシャ・ヨガの本なども書いているので、それらの本を読んで実践するのもいいでしょう。


ここまで書いてきたことは、光を込めて書いています。

もし、あなたが少しでも霊的に開かれた人なら、この文字からでも光を受け取れることでしょう。
すべて瞑想によって自得したことを前提にして、古今東西の聖典を解説させていただきました。

神の光を文字に込めて、経験を血肉として伝えています。
これらの話があなたの道を照らすことを祈っております。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。