書くこと

書きたいこともなければ、書きたいことを見つけ出す努力すら最近はできていない。別にいいじゃないか。僕が書かなくても。僕が書いたことだってもっと遥か昔に誰かが世界中の偉人が僕より遥かに精度の高い思考で巧みな文章で綴っているではないか。いや結果論的、生存バイアスのようにそのような文章しか後世に伝わってきていないのかもしれない。

作家は間違え続けること、間違えていることを間違っていると分かっていながらそれでも貫くことが大事だ。それが一つの核になる。そこに科学的根拠や証拠は必要ない。作家に正しさは重要ではない。
そもそも正しさ、善や悪、正義、なんてものは立場によって誰が言うかによって大きく変わるじゃないか。配られたカードで勝負するしかないんだよと恵まれた環境で生まれた人が語ったても何も響かない。

僕はなんについて書きたいのだろう。正しさも正義も、善も悪も興味はない。やはり美だろうか。美しさについて書きたい。僕自身が美しくなくても世界が美しければ、作品が美しければそれでいい。充分すぎるほどだ。セックスや人の死を描写せずに感動するものを創りたい。

なーんて偉そうなことを書いていてもしょうがない。心を刺したり、響いたり、感動させたいなんていうだけ野暮だ。生きざまをロックさせよう。誰も見ていなくても、独りでも淡々と毎日地球が回っているようにやっていこう。
誰にも発見されなかったダイヤが輝かなかったことには決してならない。
このnoteが100年後、1000年後、仮に発見されて読まれたとしても恥ずかしくないような文章を綴っていこう。現代がどうだったか語れるのは今、同じ時代で生きている僕たちだけだ。
平成で青春を過ごした僕らしか語れない平成の時代がある。令和に青春を過ごした君にしか語れない令和の時代がある。いつの時代の文章も読めばその時代の雰囲気を時間を超えて感じることができたら、それより美しい時間移動を想像を僕は知らない。
だから、だからこそ僕は僕の存在を未来永劫、文章を書くことによって残してそして輝かしておきたいのです。

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