死という美

もうこの先の人生で遺書を書くことはないのかなと思う。死んでもなにも美しくない年齢になってしまった。人は十代の頃に得られなかったものに一生、執着すると言われいる。

僕が十代の頃欲しかったものが「死」だった。

青春だとか、お金とか名声、承認欲求が欲しかったわけではないんだ。虐められていたわけでもなく、家庭環境に少しの不幸はあったけど、それは他所の酷い環境と比べれば大したことはなくて、だけど、だけど僕は死にたかった。多分、僕は僕であることが嫌だったんだと思う。自分を許せなかったと言ってもいい。死への憧れもあった。自分以外の人が自分の人生を生きた方がよっぽどいい人生になると思っていた。

僕は本気で「死」は美だとあの頃、信じていた。

今だって考えは変わっていないのかもしれない。
死は生に対してあまりにも一瞬で呆気なく終わる。まるで花火のように桜が開花して散るように。生は過程そのものだが、死は結果であって誰にも平等に訪れる。死ぬのが若ければ若いほど後々の人生の余白がバックグラウンドが、幾多に想像される。そこに哀愁が感じさせられる。どうしても「死」と比べて「生」に対して美を見出すことが難しい。僕は自分で自分の生涯を終わらせたい欲がある。それは病気でも、事故によってでもなく自分自身が決めて自殺したいというものだ。

の子だったか誰かが言っていた。「自殺には若さと勢いが大切だ」と。今になってその言葉の重さが身体全体にのしかかる。大人になってもはや死を行動にうつす体力が心の気力がなくなってくる。老いによって、精神年齢によっても「死」に対する価値観が変わってくる。
それは大切な人を失うことでかもしれないし、逆に失いたくない人ができたからかもしれないし、正気を取り戻すことによりあの頃の自分はおかしかった、どうかしていたと思うようになったからかもしれない。あの頃の方が正常だったかもしれないのに。

僕は自分のために生きることができなかった、かといって人のために生きることもできなかった。僕は自分のために生きるのには優しすぎたそして他人のために生きるには自分勝手すぎた。

簡潔に遺書を書くならこんな感じになると思う。
精神が死んでも身体は生きている。身体は最後の最後まで生にしがみつく。死のために動かすのは言葉通り死ぬ気で死ぬ気にならないと。若しくは本能を騙さないとほとんどの人はできない。

なぜ貴方は飛べたのだ?そう聞きたくなるほどに一瞬の出来事なのに。

飛べた貴方と飛べなかった僕の違い。

答えのない問いが解決できない問題が僕にも君にもあって、それは僕にも君にもどうしようないほどに深い絶望に見えていた。

僕は死にたい人に生きてとも言えないし、生を肯定できない。何もできない。僕ができるのは君のために泣くことだけなんだ。

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