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子どもの習いごとがASD的に修羅場。

ASD気質なわたし

特にうるさい場所、ガヤガヤした場所、
無神経な人や高圧的な人、広く浅くの人間関係などは苦手です

そんなポンコツ人間ですが、幼いころから試行錯誤を繰り返し、自分の苦手なものは避けて、なんとか自分に心地よい居場所や人間関係を築いてきました

そんなわたしの長年の努力を一瞬で無に帰すもの、それは子育てです

わたしは、昔から学校(特に中学校まで)がすごく苦手でした

高校や大学、会社は、ある程度自分で付き合う人間や自分のやりたいことを選ぶことができますが、
中学校までのあの多種多様な人種の人間が雑多に詰め込まれている感じ
大勢の人間が一律のルールに従って一律に行動する感じが本当にしんどくて
今思い返しても二度と戻りたくありません

大人になって、ある程度自分で選んだ、自分でコントロール可能な、自分だけの狭い世界の中で生きていたわたしにとって、
子どもを産んだことによる人間関係の広がりが、苦痛で仕方ありません

そんなこといっても、別にママ友グループに属しているわけでもなく、保育園や習いごとで保護者や先生に挨拶したり雑談したりする程度なのですが
それがわたしにとっては非常にしんどく、神経が疲れるのです

今のところプライベートで子どもを遊ばせるときは、もともと学生時代や会社での知人友人としか遊ばせていません

会社や学生時代の友人は、ある程度バックグラウンドも考え方もわかっているし、
わたしのこともわかってくれているので
安心して付き合うことができるのですが
保育園や習いごとにいるたくさんのママたちは、ありとあらゆる人種が混じりあい、
あのわたしが恐れた学校の再来のようなカオスなのです

正直なところ、わたしは仕事や趣味、勉強の話を熱く語るのはすきなのですが
子ども関係の話や他人の噂話には興味がなく、
それ以外の雑談というものがまるでわかりません

職場では、むしろコミュ力があるね、といわれることもあるのですが、
それは仕事という特定の場所で、限られた人たちと限られた話題について話しているからで、
それ以外の場所では普通のふるまいというものがてんでわかりません

よくあるのが、相手のママはわたしや娘のことを知っているのに、わたしは相手が誰かまるでわからないという場面で、非常に気まずいです
(興味がないことが意識に入らない…)

それでも学生のころは、別に変人だと思われてもいい、と開き直っていたのですが
子どもの関係だと、あまり変な人だと思われるのも子どもにデメリットがありそうで開き直れず、けっこうしんどいです


いまも、子どもの習いごとを見ているのがしんどくて
車の中に避難してひとりで隠れています
(習いごとはもちろん見たいのですが、たくさんの保護者や子どもがガヤガヤしている場所にいるだけでぐったりと疲れ果ててしまいます)

周りの音の聞こえない、空調の効いた、周囲から隔離された車内にいると、
やっと一息つけるような気がします

自分ひとりだけの場所で
自分のペースで過ごすことが
わたしの心の平穏のためにはとても大切なのです



自分でも難儀な性格すぎると思います…


人間、完全に自分だけのペースで生きることはできない

社会に出て、自分のしたい仕事をしたり、子どもを産み育てて家庭をつくりたい、などと何かを望むのであれば
自分の特性や望みと、社会のルールの妥協点を常に探っていかなければいけません

自分の特性を否定しても、社会のルールを否定しても、しんどいだけです

自分の特性もケアしつつ、社会のルールもある程度尊重する

耐えられないほどの場所ならば、離れたり諦めたりするしかない

常にその妥協点を探ることが、ASDとしてこの世界で生きるためには必要になります




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