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起きたことに意味はあるのか?

突発性難聴になってから、いくつもの鍼や整体にも行ったのだけれど、そうしたところで言われてモヤモヤした言葉がある。

「これは体からのメッセージ(orサイン)だ」「すべてのことには意味がある」「物事は起きるべくして起きている」……うんぬんかんぬん。

そう言われると、もともと考えすぎるタイプの私は「てことは、これまでの自分の思考や行動に問題があったってこと……?」と自分をどんどんと責めることになるのである。ただでさえ、耳鳴り・耳のつまり感がひどくて抗不安薬を飲まないといけないほど精神不安定になっているというのに、だ。

なんで、私の体はこんなふうになってしまったんだろう?
なんで、私にこんなことが起きたんだろう?

けれど一方で、こんなふうにも思うのだ。はたして自分の身に起きたことに対して、意味や理由を見つけなくてはならないものなのだろうか?

そんなとき、目に留まったのが千野帽子さんの「人生につける薬 人間は物語る動物である」というウェブ連載だった。その第3回「なぜ私がこんな目に?」で千野さんはこう記している。

私たちはいつも単純明快な答えを求めてしまいます。ストーリーが滑らかで「わかりやすく」感じるとき、そのストーリーが──ひいては、自分の左脳のインタープリターが──「ただの前後関係」や「ただの相関関係」を「因果関係」にこっそりスライドさせている可能性があります。

 生きていくうえでいろんなことの原因・理由がはっきりしているほうがラクなので、脳はその説明についすがってしまいます。

人生につける薬 人間は物語る動物である

起きたことに対して、私たちはその前後関係や相関関係を因果関係に捉えて、何かしらのストーリーを作ってしまうクセがあるということ。なぜならそのほうがラクだから。

たしかに、「日頃のストレスや疲れが溜まりすぎて、それが限界を超えて突発性難聴になった」というのはストーリーとしてはわかりやすい。だけど、それは可能性であって「事実ではない」ことを私は見落とさないようにしたい。

病気に限らず、私たちの人生には不意に起きてしまうアクシデントというのが起こりうる。それに対して勝手に脳内でストーリーを作って意味づけをして、自分を責めるなんてことはやめよう。「起きたことに意味はあるのか?」は自分が意味づけをすればあるし、意味付けをしなければない。そこに確実にあるものといえば、ただの現実だけなのだから。

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