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小説『松子さんの結婚』1

松子さんはわたしのあこがれの人だった。
幼いころから彼女にあこがれ続けて、中学のころは松子さんの髪形を真似てロングヘアにしていた。
けれどロングヘアは手入れが大変で、高校入学を期に髪をばっさり切ってしまった。

はじめは違和感があったショートヘアになじんできたころに、松子さんが結婚した。
それはわたしにとって青天の霹靂と呼ぶべき出来事だった。

「あら。やす子ちゃん」
いつも通りのおっとりした口調で、松子さんはわたしの名前を呼んだ。
松子さんがいると思っていなかったわたしは、動揺してあいさつを返せなかった。

今はテスト期間で、帰宅時間がいつもより早い。
だから松子さんと鉢合わせてしまったのだ。
わたしが帰る時間は松子さんのピアノのレッスンの時間で、いつもはピアノの音を聞いているだけだった。

松子さんに会うのは結婚を知ってからはじめてのことだった。
数十秒の沈黙のあと、わたしは前置きなしに「おめでとうございます!」と頭を下げた。
松子さんはきょとんとして、首をかしげた。

「結婚するんですよね。松子さん」
口にしたら、しゅんとさみしくなった。
まるで初恋の人が結婚するのを知ったような気分だった。

「やす子ちゃんももう知ってるのね」
松子さんはびっくりした顔で、目を丸くした。
「まだ家族の顔合わせをしただけなのに」
「『松風』で顔合わせしたんでしょう? あそこのおじさん、おしゃべりだから」
「そうなのね」
松子さんは苦笑した。
困った笑顔も絵になる人で、わたしは見とれてしまった。

こんな人になれたらなあと、何度思ったことだろう。
きれいで、自分の夢を叶えていて、いつも笑顔で、やさしくて。
わたしがなりたいと思っているもののすべてを、松子さんは持っている。

手にした学生カバンがずっしりと重たく感じた。
いつもより教科書は少ないはずなのに、重い。
それはどうあがいても届きそうにないあこがれの重さなのかもしれない。

わたしは松子さんみたいになりたかった。
みたいにというより、松子さんになりたかったのだ。

ピアノは続かなかったし、成績もいまいちだし、身長ものびないし、いろいろ足りないところは多いけれど、それでも松子さんになりたかった。
がんばっていればいつか、なれるんじゃないかと思っていた。

松子さんはわたしの理想の未来像だったのだ。
その松子さんがまさか…。

「結婚したらやす子ちゃんともお隣さんになるのよね」
ぽっとほほを赤らめて、松子さんは言った。
その表情は可憐としか言いようがなくて、わたしは切ない気持ちで見とれた。

「松子さん、ピアノ教室は辞めちゃうんですか?」
「休みの日だけにしようかなと思ってるの。お店の手伝いも忙しいから」
「手伝うんですか? 酒屋の仕事」
「もちろん」
松子さんはにっこり笑って、腕まくりしてみせた。
「こう見えても、体力には自信があるのよ」
「看板娘になりますね」
わたしはふにゃっと笑ってそう言った。
全身から力が抜けていくのを感じていた。

あの松子さんが、酒屋で働くのか。
そりゃあまあ、松子さんだったら酒屋のエプロン姿も絵になるに違いない。だけどその隣にいるのが…。

「本当に、正太郎と結婚するんですか?」
とうとうわたしは、そうたずねてしまった。
松子さんは驚く様子もなく、「ええ」とうなずいた。

松子さんのほほはふんわりと赤かった。
正太郎のことが、本当に好きらしい。
あの正太郎のことが?

わたしは苦々しい気持ちで頭を下げた。
そしてもう一度「おめでとうございます」と言った。

ちっとも心がこもっていない言葉だったけれど、松子さんはわたしの本心には気づかなかったみたいだった。


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