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小説『松子さんの結婚』6

がたんという音で、わたしははっとした。

長机がかすかに揺れた。
端に座っていた正司くんが、鞄を机に置いたのだ。
彼は広げていたノートや参考書を鞄にしまいはじめた。

わたしは学習室の前方の壁にかけられている時計を見た。
今学校を出れば、3時台の電車に間に合うはずだった。
正司くんはその電車で帰るつもりらしい。

落ち着かないと思っていたけれど、いつの間にか勉強に没頭していた。
数学の問題がむずかしかったこともあり、すっかり時間を忘れていた。
家ではこんなに集中して勉強できなかっただろう。

意外な結果に驚きつつ、わたしも問題集を閉じた。

正司くんに合わせたわけではないけれど、3時台の電車で帰ろうと思った。
久しぶりにしっかり勉強したせいか、お腹が空いてきたのだ。

手早く荷物をまとめた正司くんは、わたしより先に席を立った。
わたしの後ろを通るとき、わたしが片づけをはじめていることに気づいたようだった。

正司くんは小声で「帰るのか?」とたずねた。
小声でもあいかわらずのいい声だ。
わたしは黙ってうなずいた。

正司くんは一足先に学習室を出た。
後から学習室を出たわたしは、廊下で正司くんが待っていたので驚いた。

「行くか」
いっしょに帰る約束をしていたみたいに、正司くんは歩き出した。
約束なんてしてたかなと思いつつ、わたしは彼のあとに続いた。

正司くんといっしょに帰るのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

入学した直後は知り合いも少なかったし、たまにいっしょに帰ることがあった。
同じ電車だし、家も近いし、別々に帰るのも妙だと思ったのだ。

それに、相手は正司くんだ。
幼稚園に入る前から知っている間柄だから、今さら意識することもない。

ただ、昔よりも低くなった彼の声にはいまだになじめなくて、時々この人は誰だっけと思ってしまう。

「聞いたか?」
校門を出るなり、正司くんは例のいい声でそうたずねた。

テスト期間中ということもあって、放課後の学校に人の姿は少ない。
いつもなら聞こえてくる野球部やサッカー部の掛け声や、吹奏楽部の練習の音も聞こえない。
テスト期間中は部活動もすべて休みになるのだ。

いつもより静かな通学路を歩きながら、わたしはしばし考えた。

正司くんがたしかめているのは、正太郎の結婚の件だろう。
正司くんだって、わたしが松子さんにあこがれていたことは知っている。

「顔合わせしたんでしょう?」
あえて主語はつけずに、わたしはたずねた。

わたしたちは駅へ向かう細い道を歩いていた。

学校があるのは城下町だった地域だ。
道幅は狭く、車は一台しか通れない。
時には観光客が歩いていることもあるのだけど、その日は姿がなかった。
細い道の両側は飲食店や商店がぽつりぽつりと立ち並ぶ。
弥生ちゃんの実家があるのもこの通り沿いだった。

「やっぱりもう噂になってるんだな。松風のおじさんに知られたときに終わったと思ったよ」
正司くんは頭をかいた。

「終わったって…知られたくないことだったの?」
「知ったら機嫌が悪くなるだろう?」
「誰の機嫌が?」
「もちろん」
正司くんは黙ってわたしを指差した。
図星だったので、わたしはむくれた。

「知ってたら教えてほしかったけどなあ。噂で知るより前に知りたかったわ」
「教えたら機嫌が悪くなるのはわかりきってるからなあ。やす子って、昔から正太郎にいと気が合わないし」
頭をぽりぽりかきながら、正司くんは言う。
結婚を決めたのは正太郎なのに、正司くんの方が困っているのが妙におかしかった。

当の正太郎は、悪びれた様子もない。
それどころか、結婚の話を切り出す様子もない。
わたしが松子さんにあこがれていたことを知っているのだから、一言くらいわびてもいいんじゃないだろうか。

そんな理不尽なことを思った時、正司くんが「よし」と言って立ち止まった。

「おわびに玄米ソフトをおごろう」
正司くんは少し先にはためいていた玄米ソフトののぼりを指差した。

商店街の中にある飲食店が売り出している、オリジナルのソフトクリームだ。
駅までの道にあるからのぼりは毎日見ていたけれど、食べたことはない。

「おいしいの?」
「おいしいらしいよ。先輩たちが言ってた」
正司くんはすたすたと、玄米ソフトの方へ歩いて行く。

たしかに、勉強で疲れた頭には糖分補給も大切だ。
そして何より、正司くんからであってもおわびしてもらいたい。

何しろ彼はこれから、松子さんの義理の弟になるのだ。
うらやましい。


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