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小説『松子さんの結婚』8

「素直にお祝いできなかったのよ」

電車が隣町の駅を通過したころになって、わたしはそう言った。
日本史の用語集を見ていた正司くんは、わたしを見ることなく「ん?」と聞き返した。

3時台の電車はがらがらだった。
もともと、通勤や通学の時間帯しか電車は混まない。
田舎町を走る電車は、4人掛けの席を2人で占領してもまだ余裕があった。

玄米ソフトは電車に乗る直前にどうにか食べ終えた。
駅のゴミ箱にゴミを捨ててから、わたしたちは階段を上がってホームに出た。
始発駅なので電車はすでに到着していて、乗客が乗り込むのを待っていた。

がらがらの電車で、4人掛けの席に向かい合わせに座った。
わたしたちはかたわらに、勉強道具の入った重い鞄を置いた。
鞄を肩から下ろしただけで、気分も軽くなったような気がした。

電車はゆっくりと走り出し、トンネルを抜けて隣町に入った。
隣町の駅で数人が乗り込み、次の駅に向かって走りだしたころに、ようやく気持ちの整理がついたのだ。

「おととい松子さんに会ったんだけど、素直に『おめでとうございます』って言えなかった。今思うと、それってすっごく失礼だよね」
「まあ、言えないものはしょうがないんじゃないの?」
用語集のページをめくりながら、正司くんは言う。

「正司くんはお祝いできたんでしょう?」
「いちおう…。いや俺も、やす子に偉そうなこと言えないな」
顔合わせのときのことを思い出したのか、正司くんは宙を見た。
そしてぱたんと用語集を閉じた。

「兄が結婚するのって、なかなか気恥ずかしいんだよ。そういえばまだ、『おめでとう』って言ってないや」
「そうなの?」
意外な話に、わたしは笑った。

「正太郎にいが『結婚する』って言い出した時点で、大騒ぎだったしなあ…。親はめちゃくちゃ心配するし、相手が松子さんだと知ってさらにあわててたし、店の後継ぎはどうするんだって騒ぎにもなって、お祝いどころじゃなかったんだよ」
「後継ぎは正太郎なんでしょう?」
「その予定だったけど、松子さんが酒屋に嫁いでくれると思えなかったからさあ。今からサラリーマンにでもなるのかって、かなり問い詰められてた」
「そうだったんだ」
正太郎の結婚話に衝撃を受けたのはわたしだけではなかったということか。

大慌ての一家を想像したら、笑えて来た。

「誰だって驚くよね。あの正太郎が結婚だなんて」
「そうそう。相手が松子さんじゃなくても、驚くよ」
「結局跡取り話は解決したの?」
「それがさあ」
正司くんは照れくさそうに、ぽりぽりと頭をかいた。

「正太郎にいは意外と考えてたみたいで、結婚を決める前に松子さんとも話し合ってたらしいんだよね。『酒屋の仕事を弟に押し付けるわけにはいかないから、手伝ってくれるか?』って言ってたらしくて」
「あの正太郎が?」
わたしは目を丸くした。

正太郎といえば、どこまでも自分中心。
まわりの迷惑なんてお構いなしに、気ままに生きている男だと思っていた。

実際、空気は読まないし、やりたいことしかやらないし、仕事がない日はパチンコ屋に入り浸っていたし、気楽に生きている能天気な人だと思っていた。

その正太郎が実家のことや正司くんのことまで考えていたなんて。


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