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小説『松子さんの結婚』3

わたしが通っているのは隣町の高校だ。
毎日電車で30分かけて通っている。
高校は駅からも遠く、歩いて20分かかる。
通学に時間を取られるから、電車の車内も貴重な勉強時間になる。

けれど今日は、全然頭に入らない。
電車に揺られながら英単語帳を見てはいるものの、頭の中によぎるのは松子さんと正太郎の姿だけだ。

二人がいっしょにいるところを見たことはないからそれはあくまでもわたしの空想なのだけど、空想の中の二人もなんだか釣り合っていなかった。
どう想像しても、不自然だ。
松子さんと正太郎は別々の方向を見て、距離を取って歩いているようにしか見えない。

そんな二人が結婚? 夫婦になる? 家族になる? 考えられない。

「わ!」
そのとき電車が急カーブに差し掛かり、揺れた。
ぼんやりしていたわたしは、近くにいた男の子にどんとぶつかってしまった。

「すいません」
「いえいえ」
聞こえてきたのはやたらいい声だった。
こんないい声の知人は一人しかいない。
顔を上げると、向こうもわたしに気づいて「あ」と声をあげた。

タイミングがいいのか悪いのか。
わたしがぶつかったのは、正太郎の弟である正司くんだった。

「めずらしいね。この時間に乗ってるの」
「寝坊したんだ」
正司くんは眠そうな顔で言った。

正司くんはわたしよりも早い時間の電車で出かける。
彼は吹奏楽部に所属しているので、朝練があるのだ。
ただでさえ通学時間がかかるのに、部活にまで参加するなんてすごいなあとただただ感心する。

しかも正司くんは進学クラスだ。
入試の成績によって振り分けられる、成績上位者のクラスにいる。

正太郎の弟とは思えない優秀な弟が、正司くんだ。

そのせいか、わたしは正司くんのことを呼び捨てにできない。
子どものころからずっと、正太郎は正太郎、正司くんは正司くんだった。

正司くんに聞いてみようか、と思った。

正司くんは松子さんと正太郎の顔合わせにも出ているはずだ。
二人のなれそめを聞いているかもしれない。
二人でいるときどんな感じなのか、知っているに違いない。

ああ、だけど正司くんは、正太郎が松子さんと結婚することを教えてはくれなかった。
わたしが松子さんにあこがれているのを知っていたにも関わらず、だ。

正司くんはあくびをかみ殺しながら、参考書を開いていた。
英文法の参考書だ。だけど学校で使っているのとは違う参考書だった。
たぶん、自分で買ったのだろう。

正太郎は参考書を買うことなんてありえなかっただろうけれど、正司くんは参考書を買う。
この兄弟は、何から何まで似ていない。

電車がスピードを落としはじめた。学校と地元との途中にある駅に着く。
この駅にも高校があるから、かなりの人数が下りて行った。
電車の中は人が少なくなり、座席にも余裕が出た。

「座れば?」
正司くんは目の前の、空いた席を手で示した。
わたしは「遠慮なく」と言って座った。
そして単語帳を閉じ、目を閉じた。

勉強なんかする気にならない。
今のわたしは傷心なのだ。

あこがれの松子さんの結婚は、思っていた以上にショックだった。
よりによって正太郎と結婚するなんて。
せめて…正司くんみたいな人と結婚してくれたらあきらめもついたのに。

わけのわからないことを思いながら、ドアが閉まる音を聞いた。
電車はゆっくりと動き出す。
がたんごとんという音を聞きながら、わたしは短い眠りに落ちた。

子どものころの正司くんは、もっと高い声だった。
中学のころに変声期を迎えて、がらがらの声を通過した後に、低くていい声になった。

声優さんみたいな声だ。
アニメ好きの女の子たちが、正司くんの声にきゃあきゃあ言っていたのを耳にしたことがある。
有名なアニメのキャラクターに似ているらしい。

正太郎の声は、そんなに低くない。
けれどよく通る。
「こんにちはー」という正太郎の声は、母屋にいても耳に届くのだ。

声がいいところは、兄弟の似ているところだろう。
声質は似ていないけれど、人の心をとらえる声だ。

もしかしたら松子さんの心をとらえたのは、その声だったんだろうか。

何しろ松子さんは音大卒のピアノの先生だ。
わたしにはわからないポイントで、正太郎の声にぐっと来たのかもしれない。

それだったらまだ、あきらめがつく。
松子さんは正太郎に恋したんじゃない。
松子さんの耳が、正太郎の声に恋をしたのなら、しかたないと思える。

うとうとしながらそんなことを考えていたら、ぽんと肩を叩かれた。
はっと目を開けると、正司くんが「着いたよ」と言った。

気づけば電車はホームに入っていた。
学生たちはわらわらと改札に向かって降りていく。
うとうとのつもりが深い眠りに落ちていたのか、わたしは全然気づかずに座ったままだった。

「ありがとう」
「どういたしまして」
正司くんは鞄を肩にかついで、一足先に電車を降りて行った。
歩きながらも、彼の視線はちらちらと参考書に向いている。

ほんとに似てないよなあと思いながら、わたしもあわてて電車を降りた。


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