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小説『松子さんの結婚』5

お弁当を食べたあと、わたしは一人で学習室に向かった。

弥生ちゃんもいっしょに来るはずだったのだけど、なんと彼女は明日のテスト教科の教材をごっそり忘れて来ていた。
「ごめんねー」と言いながら弥生ちゃんが帰ってしまったので、結局一人で勉強することになった。

学習室に行くのははじめてだった。

いつもは電車の時間になったら家に帰る。
でもきのうのことがあったので、今日は学校で勉強しようと思った。
松子さんや正太郎の顔を見たら、また集中できなくなるに決まっている。

学習室は職員室から離れたところにある。
周りには教室もなく、体育館へ続く廊下と下駄箱があるだけの場所だ。
もともとは倉庫だった場所を改装して、学習室にしたらしい。

わたしは学習室の扉をがらっと開けた。
そして、後悔した。
学習室の中は静まり返っていて、思っていた以上の人数がいたのだ。
外にいるときは全く人の気配がしなかったから、わたしはすっかり油断していた。

そのまま扉を閉めて引き返そうかと思ったけれど、中にいた人たちはわたしを気にする様子もなかった。
みんな黙々と手を動かしている。
自分の世界に没頭していて、まわりなんて見えていないようだった。

たぶん、進学クラスの人たちだろうなと思った。
雰囲気が違う。

もちろん普通コースの生徒もいるにはいるのだろうけれど、学習室に来ている人たちは進学クラスの雰囲気に混ざりたくて来ているのだろう。
ただ勉強場所を探していただけのわたしとは違う。

学習室は教室と違い、いくつかの長机が並んでいる作りだ。
長机は教壇に向かって並んでいる。
席は決まっていないようで、長机に並んで座っている人もいれば長机を一人で占領している人もいた。

ちょうど一番後ろの長机が空いていたので、わたしは音を立てないように鞄を置いた。
音を立てないように椅子を引き、扉に一番近い席に陣取る。
気まずかったらすぐに出て行こうと思いながら、わたしはきょろきょろとあたりを観察した。

そこにいるのは知らない生徒ばかりだった。
進学クラスは1組で、わたしは6組だ。
授業が同じになることもなく、廊下の端と端で教室も離れている。
学習室は学年別に分かれているからここにいるのはみんな一年生のはずなのだけど、大人っぽく見えた。

かりかりとペンを走らせる音が響く。
時折、ページをめくる音。
おしゃべりをしている人はいない。
授業中よりも張り詰めた空気がただよっていた。

進学クラスの授業中は、いつもこんな雰囲気なんだろうか。
息がつまる。

一応参考書を出してみたものの、わたしは完全に空気に飲まれていた。
ここにいたらそれはそれで、集中できなそうだった。

けれど松子さんと正太郎のことは考えずに済む。
家にいるのとどちらがましか、答えは出なかった。

わたしが数学の問題に取り掛かったとき、からからと小さな音がして学習室の扉が開いた。
そうか。そうやって静かに開ければよかったのかと思いながら、わたしは入ってきた人をちらりと見た。

入ってきたのは男の子だった。大きな鞄を持っている。
足元から顔へと視線を動かしたわたしは、『あ』と声をあげそうになって飲み込んだ。

ほかでもない。入ってきたのは正司くんだったのだ。

正司くんは学習室の中を見回して、どこに座るか考えているようだった。
学習室の前から後ろへと視線を動かした彼もまた、一番後ろに座るわたしに気づいた。

声は出さずに正司くんはわたしの肩をぽんと叩いた。
『よく会うな』とかすかな声でささやいて、正司くんはにやっと笑った。

一日に二度も正司くんと出くわすのは、たしかにめずらしいことだった。
おとといは松子さん、きのうは正太郎、今日は正司くん。
松子さんの結婚を気にしているせいか、次から次に関係者に出会う。
引き寄せの法則って、こういうことを言うんだろうか。

正司くんはわたしの座っている長机の端に座った。
離れているから何の勉強をはじめたのかはわからなかった。
長机にノートを広げ、筆箱を出し、慣れた様子でシャーペンを取り出している。
くるくると回してから問題集らしきものを開くのを、わたしは横目でちらちら気にしていた。

ああ、結局今日も勉強には集中できない。
今回のテストの結果がさんざんであることを、わたしは早々と覚悟した。


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