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名作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観て泣いてる場合じゃない

名優ミシェル・ヨー演じる中国系のアメリカ移民の女性と、家族をとりまく壮大なSFドタバタコメディアクション感動大作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』。アカデミー賞総なめにして話題となった作品で、これを遅ればせながら昨年観に行った時の話である。

池袋だったかの映画館で予約した席に着くと、右隣に20代前半と思しき(大学生かな?)女性二人が並んで着席していた。映画が始まり話が進むと、脚本と展開のはちゃめちゃさとエモーションの揺さぶりの半端なさのせいで、僕も彼女らも、いまいちな映画の時とは比較にならないほどポップコーンが進んでいなかった。夢中で笑わされ揺さぶられ感心させられ、これ最後どうなるわけ?と心から楽しんでいたのだ。
そして最後の、それまでの無茶苦茶な展開からは想像もつかない、しかし観る人それぞれの胸に色々と去来させるあの母娘のくだり。あまりに画期的でいて普遍的なこの終盤には僕も、「なんと見事、しかもこんなのが賞を総舐めにしたこともすごいな」などと結構感動していた。隣の女性2人組はというと、もう最後にはスンスンと鼻を啜る音を立てて泣いているくらい。自分たちと同年代の娘と母の話でもあるので、僕よりもよほど他人事じゃなかったようだ。
エンドロールのクレジットが全部終わって客電が付くと、二人組の一人はまだ涙が止まらない様子で「あああ〜...あのお母さん、ウチのママと全く同じだから、思い出して泣けちゃった...」と笑いながら漏らし、もう一人も「ううー、わかる〜」と涙声で相槌を打つのだった。

というこの状況。
“映画”という芸術をまた一つ革新し、かつ楽しく素晴らしいエンターテイメントとなった本作を観て感動して泣いている若いお客さん、という、素敵な光景だし、僕も圧倒されたので彼女らの気持ちもわかる。
のだが。

なぜか彼女らの涙が、妙に引っかかってしまったのだった。
んー、なんでだろう。

ママそっくり…

この映画をざっくり説明すると(ていうかざっくりとしか説明できないから)、ミシェル・ヨー演じる中国からアメリカに移民してきた中年女性が主人公で、人生のいろんな局面の「選択」を振り返り、決心しながら、最終的には全宇宙を絶望から救う、というあらすじだ(なんだそりゃ)。夫と共にアメリカに渡り、コインランドリーの経営を始めたものの、今やパッとしない自分の人生に疲れ、夫とも自分の娘ともうまくいっていない。娘は同性愛者なのだが、父(娘にとっては祖父)にはそのことを隠しており、胸を張って自分の娘のことを話せない、むしろ恥じているような態度をとってしまう。一方、パートナーを家族に認めてもらって、なんとか母や家族に自分と自身のセクシュアリティを受け入れてもらいたいと願う娘だったが、母がとる「選択」についに絶望してしまったことで、全宇宙ごと虚無に消えてしまう危機に陥る...という、まあ、観てない人には「はあ?」という話ではあるが、これ実にいろんな要素を含んだ脚本と演出とギャグで構成されていて、見事なのだった。無茶苦茶な大枠なのだが、すごく全方位的に普遍的で、その実シンプルかつウィットに富んだ快作なのである。

さて、ただでさえアクロバチックな脚本と、多様な要素で構成された設定なので、いろんな視点から何度も楽しめる作品だと思うのだが、この映画の大筋を捉える上で、個人的に非常に重要だと考えているのが、“アメリカに移民した、アジア系の親子の物語である”という点だ。少なくとも我々日本在住の日本人の周りには、あまり身近でないタイプの家族だろう。
むしろ”同性愛者の子のことを先祖に顔向けできない親”、という設定はこれまでもアメリカだろうがどこだろうが、割と世界中これまであった話で、この部分はむしろ普遍的ですらある。特に東アジア系の人間にとっては、「先祖や親に顔向けできない、恥だ」みたいな感覚は割と共感可能な話だろうし、つまり、思うに、儒教国の文化を知る者にとっては「まあ、普通そうなるよね」みたいな設定なのだ。

写真はイメージです。

しかし。

映画の彼女らが暮らしているのは中国韓国日本などの東アジア圏ではなく、人権を遵守することを最大の道義であるという”綺麗事”で成立させてきた倫理観押し付け超大国、アメリカなのである。

カモン・ベイビー U.S.A.

そのアメリカで暮らしているがゆえ、アメリカで育った娘と、一方で東アジアの倫理感で育った母の間には、ただの親子間の軋轢以上の、異文化間の無理解と断絶が起こっている、という点を認識して本作を観るのと観ないのでは大分違う。アメリカに大勢いる、ごく普通の、とある移民家族の物語である。ごく普通だが、その大勢いるであろう数多の家族の中で巻き起こっているであろう激しい異文化摩擦が、実は本作の大きなテーマの一つなのだ。

なんなら非アジア系の人々の方が、「アジア系ってまあ、こうだよね」、とすんなり客観的に理解しやすい設定なのかもしれない。それとは対照的に、当の東アジア住人は自らの文化の旧来の性質に客観性を持ちづらく、気づきにくいのではなかろうか。
もしその視点なしに ”普遍的な親子の話を、ありえないくらいに壮大にしてみた、おもしろとんでも映画!”みたいな奥行きのない認識になっているのなら、この映画の重要な部分を見落としたままになる。

さて、この映画を観たのと同時期に、アメリカで活躍する若い中国系の新進スタンダップ・コメディアン、ジミー・ヤンJimmy O. Yangの動画を時々観るようになった。

ジミー

スタンダップでは人種の傾向などをネタにするのが常なので、当然ジミーも自分のアジア系ルーツをネタにする。いくつかのネタを見たが、”アジア系の両親の元で育つと自尊心と自己肯定感が徹底的にズタボロにされる”、”親が子供に安心や自信を与えてくれることはほぼないね”、”やりたいことをやれ、なんてアジア系の親は言ってくれないよ!失敗して台無しにするな!しか言わないからね!”などなど。ひどい物言いだが、僕はまあまあ同意せざるを得ず、彼のネタは非アジア系からは爆笑を掻っ攫い、アジア系からは”激しく同意”を集めているわけだ。
超マイノリティであるアジア系移民、しかもコメディアンとなると、まだまだ人数は少ない。なのでなおさら、世界の中での東アジア系文化、というのを客体化する上で、彼の存在はかなり面白いと僕は思っている。

これとほぼ同時期に、韓国人を両親にもつアメリカ人の友人と電話で話していた際のこと。ややこしい家庭で育った彼もまた、ほぼほぼ先のジミーと同じ様なことを言っていたのが興味深かった。韓国育ちの母親の感情的で否定的な気質には早いうちから絶望していたのだそうで、そのジミーOのネタのことを話すと、いつものドライで疲れた口調で「ああ、そりゃ間違いないね…」と言うのである。うーん、こっちもしんどい気持ちに。

僕自身も身に覚えがある。幼少の頃アメリカに住んでいたのだが、昼間に通っていた現地の学校では、自らの意志で発言し、主張し、考えることが正しいとされていた。舐められがちなアジア系である僕は、なおのこと舐められないよう意見を毅然と言えるようにしていた。意見を言う自由が尊重されていることは、間違いなく人間の自尊心に貢献するだろう。基本的に、人種に拘らず、子供の自尊心が理不尽に抑え込まれるような教育はアメリカの学校では少なかったように思う。だってアメリカは競争が激しく、保証も少ない理不尽な社会なのだ。子供のうちに自尊心を損ねてしまっては、とても社会でサバイブできない。外に出ればどこでもドラッグも犯罪もあるし、自己責任の意識も強いわけで、日本の安定や平和とはまるで違うのだ。ならば子供のうちにメンタルを強く育てないといけない。
しかし自分の場合、学校から家に帰れば、そこはひとたび“日本”なのである。日本の学校教育がまるで世界最重要な課題であるかのように、遅れてしまっては一大事と日本のお勉強を教え込もうとする母が、テンパり、時には怒鳴り、机をたたき、勉強以外でもアレができないとダメ、コレができないようじゃ将来困る、などと現状の自分がまるで不完全な存在であるかのように圧をかけてくるのだった。日本人としての在り方を知らなくては将来困る、というわけである。
一理あるかもしれないが、母親は基本主婦なわけで、家の外のコミュニティにはさほどコミットしていない。日本社会のこともアメリカ社会のことも、知っているようでその実コアな部分はよく知らない、ということに本人が気づいていない。

僕当人はというと、毎日家の外(アメリカ)と家の中(日本)を激しく行き来しており、なんなら家の中こそが異文化摩擦の現場だったのだ。昼間の学校と比べると、家の中の方が相対的に”こちらの人格を否定するような状況や言動が多い環境”だったのである。家の外は、人権を基に個人であることを肯定される社会。しかし家の中での通念では、個人よりも”世間”や”家族”、ひいては”社会”に順応するための勉強や、迷惑かけないための常識が重要、という。一面正しく思えるし、時にはその通りなのだが、それが行きすぎるのが儒教的な文化だろう。親個人というより、どちらかと言えば文化の問題である。

とにかく、そんな真逆の文化を毎日行き来していては、自尊心の軸なぞおかしくなっても不思議はない。もしかしたら僕以外の海外体験者も、身に覚えがあるのではないか?


日本でずっと暮らしてきた人々自身は、無宗教と言いながらも、実はものすごく儒教的な観念や、しきたりや、教義に基づいた社会に暮らしている。ということを、どれくらい自覚しているのだろう。日本の外から見れば、日本人は十分に儒教的な人々である、と見做されているようだし、僕もそう思うが...特に最近とみに”人権”を重要視する声が大きくなっているようなので、なおさら気になる。人権と儒教という、真逆の倫理がいつのまにか、迂闊にうっかり共存してるのが日本の現状なわけだが、将来的にもこの矛盾をホントどうにかしないと、もう無理だと思う。

西洋的(アメリカ的)な文化や倫理観を(割と軽率に)全面的に導入したのちの現代日本社会の中で、これまで染み付いてきた儒教的性質が、どれほど個人の自己肯定感や自尊心を損ね続けているか。社会学的見地から一度調査した方が良い、と僕は考えている。長らく続いてきた家父長制と男性優位性が、今では個人を損ねるものとして問題にされているが、それらも元々儒教に由来しているだろう(パワハラ、毒親問題や引きこもり、若年層の自殺なども、当然関係あると踏んでいる)。
仮に、儒教的な社会しか知らなければ、その中での社会性を身に付けるだろう。“空気”などに対する心理的耐性も育ちやすい。しかし、真逆の倫理である”人権”が共存してしまってる状態では、理屈では説明できないややこしい矛盾が常時発生しているのだ。
その矛盾をねじ伏せるための理屈こそが、「伝統だから守る」「今までずっとこうだったのだから、正しい」といった主義で、つまりいわゆる保守言論である。理屈もへったくれもないが、保守と言われる派の一部のマインドは、結局こういった思考停止の産物であり、理屈が通用しない分むしろ強いしタチが悪い。ひっくり返すのにはエネルギーが要る。
あるいはそれらが息絶えるまで待つか。
いずれにせよ、そろそろ国全体も若い世代にとっても、キツイ。

孔子




映画の話に戻ろう。主人公親子は最後、最後の最後に断絶を乗り越えるための選択をし、結果全宇宙を救うことになる(どんな話だよ)。とんでもないストーリーの末、過去も未来も宇宙も、人種も親子間も、”全て”を、”一度に”、”同時に”、肯定し、全宇宙を救う家族の物語。はちゃめちゃで、そして感動的だった。
でも、それも結局”個人を尊ぶ”という、非儒教的で実にアメリカ的な結末ではなかったか。

東アジアの日本国の住人としては、アメリカに住んでいる人々とは違う見地からこの作品を見ることができるはずだ。実は作中のあの中国系の母娘とかなり似たような矛盾や問題を、我々大勢が、長い間無自覚なまま内包してしまってないだろうか。そこを見落としたまま、長い間理由もよくわからず「日本はずっと行き詰まっている、なぜ」などと頭を抱えていやしないか。
”人権”と、”儒教的道徳”との間に生じる矛盾と軋轢と断絶を、アジア育ちのアメリカ移民とアメリカ生まれの2世の親子を通じて描いたのが『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』である、というのが僕のこの作品の理解だ。そして日本人には日本人なりの、この作品への見地と批評があって然るべき、と考えている(そのような批評がこの国に全くないのだとしたら、日本の映画批評のレベルはその程度、ということだろう)。


作中のあの主人公にあまりにそっくりだから...と自分のママを思い出し、ポロポロと涙していた彼女たち。もしミシェル・ヨー演じるあの主人公が、彼女たちの実の母親にそっくりなんだとしたら、それって実は、泣いてる場合じゃないんじゃないか。
と、割と本気で思っている。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観て、泣いてる場合じゃない。

(終わり)


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