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僕はこの世界に二種類いる。

 「個人」としての僕と、「人々」という社会を形成する集合の1単位としての僕。
今日は、そういう話。


 内山節の「新・幸福論」という本の中で出てきた考えです。人間には冒頭で紹介した2種類の特性があり、両者の違いが紐解かれています。

 まず前者について。これは紛れもなく自我を持った自分自身のことであり、この世に一人しかいない存在です。

 対して後者は、「人々」という社会の集合の中の1単位でしかないという見方。つまり簡単に言うと、代わりがいくらでもいるということです。そこに自我やアイデンティティなどの介入は無く、経済の回る中で労働する物、あるいは消費する物としての性質しか持っていないことになります。

 この本を読んだ時、僕は現代社会でより強く要請されるのはどちらだろうかと考えました。

 イギリスで産業革命が起こり、近代の大量生産が普及し始めた頃、人々に求められたのは紛れもなく後者でした。頭を使うというよりは決められた労働をこなして生産し、また同時にその生産されたものを消費することも求められました。

日本においても、戦前の富国強兵から戦後の高度経済成長まで、労働と消費さえ続けていれば経済は豊かになりましたし、それ以外のことを一般庶民は考える必要がありませんでした。

 しかし2024年、貧富の格差問題、地球環境問題等、労働と消費のサイクルだけを馬鹿みたいに続けているのでは良くないと多くの人々が気づき始めています。そしてついに前者、自我やアイデンティティを用いて新たな価値観を創出することが求められる時代が来たのではないでしょうか。


 もちろんこの両者は同時に存在するため、以前から自我やアイデンティティを持つ「個人」は存在しましたし、今も1単位としての「人」という性質も僕たちの中に存在します。しかし、そのどちらが社会で要請されているのか、重きを置かれているのかについては、時代の変遷と共に移り変わることだと思います。

 



風邪が治りました。またぼちぼち書いていきます。
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