「文体の舵をとれ」練習問題1

「ゲド戦記」シリーズで特に有名なル=グウィン氏の著書。
 まだ読み始めたばかりだが、この本には各項目に練習問題が課されている。孤独に自分のパソコンの中にでも収めておこうかと思っていたのだが、せっかくだから目に見える形で記録しておこうと思いここに掲載する。
 練習問題の内容は一応伏せる(検索したら出てくるが)。興味を持った方は是非本書を購入して実践してみてほしい。非常に楽しいから。
 そしてあわよくば切磋琢磨出来る仲間を見つけられたらと願いつつ、以下に文章を掲載する。続けるつもりでナンバリングを施したが続かないかもしれない。やるだけやって公開しないなんてこともありそうだ。

習作


 彼女と出会った日は、まだ肌寒さの残る季節だった。
 突然海が見たくなり、電車を乗り継いで海へと向かった。突発的な旅のせいで着いたのは終電。宿はない。どころか着替えすらも無い。酷い有様だったが高揚感に酔いしれた私は気にも留めていなかった。
 誰も居ない駅から歩いて行った。大した距離ではないだろうと歩き始め、私はすぐに後悔した。多分、普通の人は苦労もしない距離だけれど、引きこもりの私にはしんどい道のりだった。体力の無さを呪った。引き返そうかとも思ったが、戻ったところで行く当ては無い。タクシーを捕まえる余裕も無い。私は進むことにした。
 苦しさを紛らわすために歌を歌った。閉店後のお店ばかりで住宅らしきものは無い。夜半だからか人っ子一人歩いていない。最初は鼻歌程度だったけれど、次第に興が乗ってきて、気付けばリサイタルを開いていた。聴いているのは月と星だけなのだから、むしろ聴かせたくなった。
 歌えば歌うだけ苦しくなって、軽く酸欠気味になった。何度か深呼吸をしたら、嗅ぎなれない匂いがした。いわゆる潮の香り、海の匂い。本当に海を見に来たんだ。
 重たい脚を叱咤して、普通の人の倍くらいの時間をかけて、ようやく目当ての場所に着いた。夏のぎらついた太陽の下なら健やかに思えるその場所は、暗がりの中ではとても不健康そうだった。
 海を見るという目的は達成した。しかし欲深いのが人間というもので、今度はこの地を踏みしめたくなった。階段を降りて靴越しに砂の感触を確かめる。アスファルトに慣れた身体は不安定な『床』を異質と判断したが、すぐに慣れた。青白い顔をした砂浜を一頻り踏みつけてやったあと、私はおもむろに靴を脱いだ。
 靴下も脱いで裸足になって、砂の上を歩いて回った。遠い灼熱の記憶と違い、サラサラの砂の上はとても歩きやすかった。ぐにぐにと感触を確かめていると、たまに貝か石なのか、固いものを踏んづけた。鈍く鋭い痛みが襲ったが、全く、気にもならなかった。
 暫く砂浜と無言の攻防を続けていたが、そのうちまたむくむくと欲が湧いてきた。私はざぶん、ざざ、と秒針のように規則的な音を刻む、深海の色をした浅瀬に吸い寄られていった。
 得体の知れない液体が私の脚を絡めとろうとしたとき、人の声がした。涼やかな声だった。この夜を、そのまま音にしたかのような。


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