「自分と親友になろう」「自分を愛そう」って言うのやめませんか
タイトルに全てを込めたのでこれ以上言うことが無い。
……と言うのは半分だけ本当。今回は表題の思考になった経緯について話していきたいと思う。
事の起こりはAudibleで自己肯定感を高める方法について書かれた本を視聴していたときのことだ。
以前Noteの記事にした通り、私は自己肯定感という言葉はあまり好きではないというか、自分の中で一定の答えは出してある。それでもやはり「鋼の自己肯定感」なんて言われると気になってしまうので聴講した。
いついかなるときも自分を受け入れる自己肯定感と、「これが出来るから自分には価値がある」といった自己有用感や自己効力感と一緒にしてはいけないこと、自己肯定感を高めずに後者二つを高めると大変なことになること、そして肝心な自己肯定感を高める方法についてが記載されている、大変ためになる本だった。
ためにはなる。だがしかし、私には耐え難い単語がある。
それは「自分と親友」「自分のことを受け入れる/愛する」と言った表現が出てくることだ。それも頻繁に。
自己を肯定するということは最終的にそういう領域までいく必要があることは分かっている。それは分かる。痛いほど分かる。
しかし私のような自己肯定感が0どころかマイナスの状態から始まる人間にとって、自分に対してポジティブな感情を向けるという、それ自体に拒否反応を示してしまう。勝手に巻き込んでしまい申し訳ないが、恐らく自分だけではない。と思いたい。
今はまだ鳥肌が立つくらいで収まっているが、もっと自己肯定感が無かった頃は「なーにが自分を愛するじゃ、そんなん無理に決まっとるがな」とそのような単語を使われるだけで聞く耳を持たなかった。
おそらくそれは「メタ思考」で言うところの「思い込み」で、幼い頃からずっと「自分が嫌い」「自分を赦せない」という具合に、自分に強固な呪いをかけてきたが故、そうでない自分を認められなかったのだろう。多少マシになった今でこそ分かる。
そんな私ですら、「自分と親友」「自分を愛する/受け入れる」と言われたら未だに反吐が出そうになるのだ。当時の私レベルの自己肯定感の人であれば当然受け入れられないだろう。それどころか、自己肯定感という言葉自体受け付けない体になってしまうかもしれない。これは実際私がそうだった。
これはいけない、と私は思う。
あまり比較することは良くないが、自己肯定感が育ちつつある人よりも、自己肯定感が0、あるいはマイナスに近い人の方が当然助けを求めているはずだ。だというのに、そのスタートラインにすら立てないというのはあんまりじゃないか?
「そんなの自分の呪いや思い込みのせいで、自業自得じゃないか」という声も聞こえてきそうだ。実際その通りだから痛い程分かる。いくら環境的な要因があったとはいえ、そういう風な生き方を選んだのは私自身だ。選択の余地が無かった幼少期や学生の頃ならともかく、大人になって様々な価値観に触れても自分に呪いをかけ続けてきたのは、私の責任だ。これは揺るぎようがない。
それにこんな風に偏屈な人間は、私しか居ないのかもしれない。多くの人は「自分と親友」「自分を愛する/受け入れる」と言われても拒否反応を示さないかもしれない。全て杞憂なのかもしれない。
だから今から書くことは全て自己満足だ。興味が無い人はここで帰って頂いて構わない。
「自分と親友」「自分を愛する/受け入れる」が受け入れられない方へ
私が今自分に対して思っていることだが、「腐れ縁」くらいの距離感はどうだろうか?
恐らくこの部分を読んでいる人は、物好きか自分に死んでほしいくらい嫌いな人のどちらかだと思っている。
前者の方はともかく、後者の方はいきなり「自分を好きになろう」などと言われても嫌悪感が湧くか、途方に暮れるか、「何を馬鹿なことを」と鼻で笑うか、その辺りだと思われる。全て私の体験した感情だ。
嫌いなところしか見えない相手のどこを好きになればいいんだ?
そんな状態から好きになるなんていうのはいきなりは無理だ。だから徐々に段階を踏んでいく必要がある。
そこで先程の「腐れ縁」だ。嫌いだし出来ることなら関わりたくないが、どうしても関わらざるを得ない場面がある。関わる間は我関せずを貫き通す。これくらいの距離感から始めるのはいかがだろうか。
どんな自分でも受け入れようと前向きに検討するのではなく、「どうしたら諦められるか」という、後ろ向きの検討をする方が、自己肯定感が低い者にとっては受け入れやすいと思うのだが、どうだろうか。
もしかしたらそんな方法に活路を見出すのは私だけかもしれない。自己肯定感が高い方からしたらちょっと眉を顰められそうな提案だとも思う。
それでも、私の提案でどこかのひねくれ者が少しでも生きやすくなれば幸いだ。
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