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人の見た目と謎の違和感の話

「人を見た目で判断してはいけない」という言葉がある。対して、「人は見た目が9割」なんて話もある。
 一体どっちなんだと言えば、両方正しいのだろう。あまりに清潔感が無い見た目だと話すら聞いてもらえない可能性が高まるし、逆にうわべだけ取り繕うのが上手な人間も多数存在する。故に話を聞いてもらいたいなら見た目も気にすべきだし、人の話を聞くときは見た目だけで判断するものではない、という風に私は解釈した。
 この枕が関係あるかどうか微妙だが、今日は見た目と見た目以外の話をしようと思う。

 個人的にはあまり人の見た目は気にしない。好みの外見というのはあるが、「好みだな」と思うだけである。顔が整っていようが整ってなかろうが、痩せていようが太っていようが、背が高かろうが低かろうが、そういう特徴を持っているというだけの認識だ。
 仮に見た目がとても好印象の人が居たとして、会話や仕草の端々に私の嫌な要素が見え隠れしようものなら、その時点で人としての興味はなくなる。逆もまた然りだ。
 この世には「ただしイケメンに限る」という言葉もある。特にインターネット上ではよく言われる。女性が「いい言葉だわ! でも不細工が言ってちゃ威力半減ね」という意味で遣っているよりか、男性が「どうせイケメンじゃなきゃ相手にしねえんだろ、けっ」という僻みで遣っているイメージが強いが、どうなのだろうか。完全に私個人の偏見なので、そんなことないという異論があれば是非ご教示願いたい。
 さて、この言葉、私は大嫌いだ。女性が遣っていれば「何見た目で惑わされてんだ」だし、男性が遣っていれば「何勝手に決めつけて諦めてんだ」と思う。あまり性別で括るのも良くないか。「イケメンというだけで好感を抱く頭空っぽ人間」と、「イケメンというだけで僻み出す別に外面も内面も磨いて来たわけではない人間」に分けた方が良いだろうか?
 以前「美しい=正しい」という考えに囚われている人が居るという話を聞いて失笑した記憶がある。数学界でも美しい数式は正しいと感じてしまう人が多数らしいので、人間の性質なのだろうか。恐ろしい話である。

 別に私は見た目に惑わされない審美眼を持っているんですよ凄いでしょ、なんて自慢をしたい訳ではない。
 単純に、見た目以外の判断基準の話をしたいのだ。皆さんには明確に何か基準はあるだろうか?
 私はどれだけ見た目が好印象であっても、どうしても受け入れられない人が居る。今現在そういう人が職場に居るのであまり居心地は良くない。さりとて、何故受け入れられないのかも説明しづらい。その人は態度が悪い訳でも、話を聞かない訳でも無い。ただ、私が勝手に引っかかっているだけである。
 そういう、理由はよく分からないけれど何か嫌な感じがする、という人との遭遇は、これまでも何度かあった。現実世界よりもインターネット上の方が多いが。そういう人に遭遇する度に、言語化不能な嫌悪感に蝕まれて困った。というか、今も困っている。
 苦手なものや嫌いなものの根源的に合わない部分を言語化して理屈に落とし必要であれば距離を取る、というのが私のスタンスなので、合わない部分が何か分からないのは非常に気持ち悪い。ジェットコースターが坂道を上がって、いざ急降下するという瞬間のあの浮遊感だけを何度も味わわされている感覚に近い。私にとっては拷問だが、人によっては嬉しいことかもしれない。
 そんな不可解で居心地の悪い日々が続いていたが、一筋の光明が差してきたことをお伝えしたい。

 私が不思議と苦手に思う人間に共通しているのは、言葉に関する何かが気に食わないのだ。
 例えば動画の字幕であったり、歌詞であったり、歌声であったり、書いた文字であったり。歌声に関してはあまり言葉に関係しているとは言い難いが、詞の表現方法と捉えたら言葉に関係している、と言えなくも無いだろうか。この辺りはまだ精査が必要かもしれない。
 とにかく「この人の言葉の紡ぎ方なんか嫌だ」と思った人に対し、不自然に苦手意識を持つということに気付いたのだ。

 私は基本的に人のことが好きではない。以前同じINTJの方の記事にあった言葉を借りれば、「全員うっすら嫌い」である。どんなに一緒に居ようともこの部分は好きじゃない、とか、ここは直して欲しい、という部分がある。多分自分もそう思われているのだろう。
 このうっすら嫌い状態の人に対しては、どこがどう嫌か、はっきりと言葉に出来る。知人も見ているのであまりはっきりと例を挙げると意図せず傷つけてしまう恐れがあるので実例は出さないが。
 苦手な部分がはっきりしていると、苦手意識のある部分以外を見ようとする余裕があるから、好きな部分も見つけやすい。故に、「トータルではまあ好きかな」という具合に天秤が傾くことがある。
 それに対して、先程挙げた人達は、「言葉に関する何かが嫌なのは分かったけれど、何がどう嫌なのかは分からない」という状態にある。そういう人には苦手な部分以外を見ようとする余裕が無いので、好きな部分を探すことが難しい。それどころか関われば関わる程、理由の分からない嫌悪感とその正体を探そうとする客観的な自分、よく分からない理由で人を遠ざけてはいけないという感情的に自己を律する自分とで疲弊してしまうので、余計に苦手意識が強まる。
 故に離れるしかないのだが、離れた後も違和感の正体を探ろうと思考を巡らせてしまう。巡らせた結果、どうにか得た推論が「言葉ないし言葉に関係する何かに問題があるのでは?」というものだった。
 あまりに漠然としすぎているが、いずれ真実が究明されることはあるのだろうか。もしその時がきたら是非私の気付きを共有させて欲しい。

 INTJは内向直感に優れている、らしい。「お前INTJだろ、『らしい』ってなんだよ」と思われるかもしれないが、ほとんど無意識に活用しているものを改めて説明しろと言われても難しいのだ。その道のプロが指導者としては向いていない可能性があるというのと同じだ。
 恐らくこの謎の嫌悪感も内向直感のおかげなのだと思う。というのも、「明確な理由は無いけれどなんとなく嫌いだ」と思った相手は、大体問題を起こしている。
 動画字幕に違和感を抱いた人は虐待疑惑をかけられているし、歌詞に違和感を抱いた人はSNSで不適切発言をして炎上した過去があるし、歌声に違和感を抱いた人は違法薬物の所持と使用で捕まった。
 まあ、よくある偶然だろう。
 今一人、職場に違和感のある人が居ると言った。その人の手書きの文字を見て、この人は無理だと反射的に思ってしまった。
 実はこの職場の人物も何か問題を抱えているのだろうか。或いは、全て偶然だけだったのだろうか。
 私としては、是非とも後者であって欲しいのだが。果てさて?


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