否定は成長の父

 貴方は否定と肯定、どちらに身を置きたいだろうか?
 私の主観では肯定を選ぶ人の方が多くなるのではないかなと思う。それもそうだ、否定ばかりされるのは決して気持ちの良いものではない。
 しかし否定が一切無い環境も、それはそれで恐ろしい。

 その昔「全肯定bot」なるものが流行った。今もあるかもしれない。
「朝起きて偉い」とか「生きてて偉い」とか、そういう類の文面をbotの個性に合わせて改変して投稿されていた。
 率直に言おう。私はこういう肯定が大嫌いである。そんなもんされるくらいならいっそ存在を全否定された方がマシだ。
 自分が肯定よりも否定することが多いからなのだろうか、なんでもかんでも肯定することに違和感しかない。「否定から入る奴は陰キャ」と言われても、別に陰キャでいいから無意味な肯定人間の輪には入りたくない。
 最低限の行動でも肯定することが自信に繋がるという声もあるだろう。それで救われた人もまあ居たかもしれない。けれど私にとっては「こんな薄っぺらい肯定で満足してちゃ人生終わるわ、成長の機会を奪うんじゃねえ」くらいに考えていた。過去の自分は刺々しいな。今もか。
 実際、自己を成長させようと努力している人の中には、自分に自信を持って些細なことでも肯定する箇所を見つける人、現状に満足せずどんなに素晴らしい成果にも改善点を見つけ、否定を重ねることで切磋琢磨する人、どちらも見たことがある。
しかし、自己成長をする必要が無いと思っている人は、自己正当化を行う人ばかりで、自分を否定する人は見たことが無い。もし見たことがある人が居れば教えて欲しい。
 自己否定も過ぎれば精神を病む。しかし自己肯定も行き過ぎれば健全ではなくなる。
 どちらも過ぎれば毒の様に人間性を蝕むのに、否定に比べて肯定のマイナス面はあまり取り上げられない気がする。何故だろうか?

否定より肯定に心を動かされ、喜びを覚えるのは、人間の理解力に特有の絶え間ない誤りである。

フランシス・ベーコン「ノヴム・オルガヌム」

 この言葉は哲学者であるフランシス・ベーコンの言葉である。ベーコンは何をしたかと言えば、アリストテレスが人類を停滞させたと批判し、アリストテレスが支持した三段論法を否定した。代わりに人間に特有の思い込み(イドラ)を排した新しい帰納法で物事を考えることを提案した。彼のおかげで科学は大躍進した、らしい。浅い知識で申し訳ない。
 私はこの言葉を初めて見たときに強い感銘を受けた。同じことを考えている人が居たじゃないか! と。またしても過去の人間と共感値を高めてしまった。
 正確には「絶え間ない誤り」だとまでは思っていなかったが、どうして肯定の方が重要視されるのだろうかと常々疑問に思っていた。
 例えば、人に指導するとき、最初に否定から入ると否定されたショックで物事を聞けなくなるから、肯定から始めてやんわりと改善点を指摘した方が良い、という話を聞いたとき。以下に私の脳内をお見せしよう。

 頭ごなしの否定や難癖ならともかく、自分の悪いところを指摘されて何故ショックを受ける必要がある? いや、ショックを受けたとして、何故頭に入らなくなる? 自分が出来ていると思っていることが実は全く出来ていなかった、くらいの衝撃ならば話も分かるがこの場合――具体例では「業績は上がっているが遅刻が目立つ部下に指導するとき」の物言いだったので、自分の非も出来ていない部分も詳らかになっている――は「何自分が悪いのに勝手にショック受けてんだよこいつ」としか思わないのだけれど……。

 常にこんな考えで頭が埋め尽くされている人間なので、肯定を肯定することを否定する(ややこしい)考えに出会って嬉しくなってしまった。これもまた、肯定に心を動かされている誤った人間の姿である。やはり程度の差はあれ、肯定が嬉しいと感じることは万人共通のようだ。
 思えば最近「理解者が欲しい」と漏らすことが多かった。大小問わず否定ばかりの環境に身を置くことはやはり苦しく思う。それは否定しない。
 しかし、仮に理解者ばかりの環境に身を置いたらどうなるのだろうか。

「エコーチェンバー現象」をご存知だろうか。
 これは狭いコミュニティで似たような価値観の者同士が交流することで、その人の意見や感情が増幅されることを表す。SNSでよく見かける。
 SNSは自分の好みであったり近しい意見であったりする投稿をより自分の元に集めてくるという特性を持つので、エコーチェンバー現象は割と簡単に引き起こされる。
 居心地の良い環境、というだけならさして問題は無いが、この現象の恐ろしいところは、明らかな誤謬や偏見があったとしても、その狭い界隈の「皆」は自分に賛同してくれるから、自分(たち)が正しいと思い込んでしまう点である。
 これは一定数否定の声が届く環境では起きにくい。余程自分を過信していない限り、一定以上の否定を集めれば「自分の考えはどこか間違っているのかもしれない」と自分を見つめ直すからだ。
 こう考えると、ただただ肯定ばかりの環境というのも、やはり自己成長という観点に於いては悪影響を及ぼしかねない。
 一定数の否定はやはり存在した方がいいのかもしれない。ではなぜ否定ばかりが「否定」されるのだろうか?
 ベーコンの言った通り「人間の理解力に特有の絶え間ない誤り」のせいなのだろうか。ではなぜ人間は誤るようになってしまったのか。

 早速結論から述べてしまうが、人間の社会性が原因ではないだろうか。
 人間は個々の力では大したことは出来ない。時間を掛ければある程度こなすことは出来るが、やはり効率の面では著しく劣る。なればこそ、人は協力し合うという道を選んだ。協力関係にあるということを示すにはどうすればいいのか?
 そう、肯定である。貴方を受け入れるというメッセージを表明することで仲間を得て、コミュニティを形成し、今日の発展にまで至った。故に、肯定に喜びを覚えるのは一種の生存戦略だったのではないかと考えられる。
 ……尤も、肯定に重きを置くから社会を形成するに至ったという見方も出来なくは無い。どちらにせよ、コミュニティを築くうえで肯定は重要な手法の一つだと言える。
 であるとすれば、否定はコミュニティの輪を乱す悪者と捉えられるのも納得である。実際は否定こそが正当で、間違いを正す機構であるかもしれなくとも、特に協調性を重んじる集団であれば否定というだけで身構えてしまうのも無理はない。



 ……などと言うとでも思ったか?

 行き過ぎた否定や頭ごなしの否定、的外れな否定は悪と捉えられても仕方ない。しかし、否定なくして成長は有り得ない。
 失敗は成功の母というが、失敗もある意味では否定と捉えることが出来なくもない。この方法では思った通りの結果は得られないのだと世界ないし自然法則が教えてくれる。この失敗≒否定無しで成功に辿り着けた人間が、有史以来存在しただろうか?
「今回はここまで出来たから次はこうしてみよう」というのも、肯定しているようで実際はやんわりと否定していると捉えることも出来る。現状の結果を否定して新たな成果を求めている、あるいは現状のやり方を否定してより良い行動を編み出そうとしている、と捉えることも出来ないだろうか?
 そもそも「もっと成長したい、向上したい」と思うことこそ、現状を否定している気持ちから沸き起こっていると言えないだろうか?
 
 またいつもの屁理屈だと笑ってくれて構わない。強引なこじつけだと冷たい目で見て貰っても構わない。
 貴方の中の否定に対する悪感情に少しでも疑いの目を向けてくれれば、私としてはそれだけで十分である。
 そして「この主張はおかしい」と否定したくなったそこの貴方。是非否定したい箇所を教えて欲しい。貴方の否定のおかげで私は更に成長できる。
 さあ、存分に否定していっておくれ!


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