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達成感なんてなくていい

「達成感」という言葉がある。
 文字通り何かを達成した、成し遂げたときに得られる喜びや満足感といった感情のことだ。
 一般的には何かに挑戦する気持ちを養うためには、達成感を伴う成功体験が必要だと言われている。

 過去の人生を振り返ってみて、私はこの達成感というものに疑問を持っている。
 例えば、何か作品や記事を書き上げたとする。何度か推敲を挟んだり挟まなかったりして投稿する。一瞬の解放感の後、明日は何を書くか、次の題材は何にするか考え始める。考えている最中に、投稿した作品や記事の不備や改善点に気付いて、少しの後悔とリベンジに向けたやる気とが発生する。
 例えば、問題集を解いているとき。難問に挑んでみる。試行錯誤の末、持っている知識だけでなんとか正解を導き出す。そこに確かに満足感はあるけれど、喜びには浸らずにすぐに解法を見て、どう解けばいいのか確認する。そこに記載されているものが自分の考えと合っているかどうか、合っていない、或いはもっと効率の良いやり方があるのであれば、自分の解法をアップデートする。そしてすぐ、次の問題に移る。
 例えば、ゲームをしているとき。ボス戦で苦戦する。何度も何度も挑戦して、行動パターンを見極め、なけなしの動体視力と反射神経を総動員して辛勝する。よし勝った、と思うもすぐに次のステージに挑戦する。そしてぼこぼこにされる。まあ、これはゲームの設計上の問題もあるかもしれない。
 とにかく、往々にして達成感のような喜びは感じるけれど、次に何をするか考える必要があるから、正直なところ鬱陶しいとすら思っていた。喜ばしい感情に浸っていたくなってしまうから、もっと機械的に物事を進めたいと思っていた。
 いつしか、達成感なんて要らないと考えるようになっていた。

 そんな私も、達成感を得てみようともがいていた時期がある。
 精神的に不調だったときだ。例によって自己肯定感を養う方法を探していた。
 こういうときどうしていつも自己肯定感を求めるかと言えば、マズローの欲求五段階説に基づいている。
 マズローは人間の欲求には生理的、安全、社会的、承認、自己実現の五段階あり、下層の(この文章では一つ目の生理的)欲求から順に満たしていくことで、最上位の自己実現の欲求を満たすことが出来るという説だ。ピラミッド型のイラストを見たことがある方も多いのではないだろうか。実は六段階目もあるらしいが、本筋から逸れるので割愛する。
 ここで、四段階目の承認欲求について着目する。ここでいう承認欲求とは、他者から認められたいという欲求だけでなく、自分で自分を認めたいという欲求も含まれる。
 つまり自己実現の欲求を満たすためには、手前の自己承認欲求を満たしてやる必要があるのでは、と思い至った訳である。
 にも拘らず、私の自己肯定感は地の底だったのだ。0どころかマイナスからのスタートである。借金を返すところから始めなければいけない。人一倍自己実現欲求が強い自覚があるのに、これはまずい。
 このような考えから、自己肯定感を高めようという思考に至ったのだった。今思えば、自己肯定感という言葉にすら嫌悪感を抱いていたのに、無謀にも程がある。
 そうして自己肯定感を高めるための方法を見ては嫌悪感に耐えきれず挫折するというスパイラルに突入していたある日、自己肯定感を高めるために、小さな目標を立ててこなし、達成感と成功体験を積み重ねよう、といった主旨の記事を見つけた。
 小さな目標というのは、まあ、机に向かうとか、本を一ページだけ読むとか、そういう類のものだ。出来なかったことよりも出来たことに目を向けてみようというのが本旨の記事だったのだが、ひねくれ者の私は鼻で笑ってしまったのだ。
 やって当然だろ、そんなこと。
 出来て当たり前だろ、そんなこと。
 そんなので達成感なんて持てないし、もしそんな小さなことすら出来なかったとき、私はどうしたらいいんだよ。
「生きてて偉い」という言葉がある。この言葉に救われた方が居たら申し訳ないが、私はあまりこの言葉が好きではない。嫌いな理由は様々あるが、この話に則した理由を挙げるなら、このレベルの肯定で満足なんてしていたら成長できないだろうと思っていたからだ。
 この考えは見事に小さな成功体験+達成感の考え方と反目し合った。当然出来るレベルの小さな目標を達成したときに得られるものは何も無いのに、仮に失敗したときの精神的重圧が相当量かかるという、ハイリスクローリターンな手法に捉えてしまったのだ。
 先も述べたように、これは出来なかったことよりも出来たことに目を向ける習慣をつけるためのものである。そして、失敗したとしても自分を責めないという大前提のもと行われるものである。当時の私は視野が狭すぎて完全に見落としていたが。
 その後も様々な自己肯定感の高め方と向き合っては諦めるを繰り返し、最終的に自己肯定を諦めたことで肯定出来るようになった。めでたしめでたし。

 さて、月日は流れ、とある本と出会った。
 以前も紹介した「続ける思考」である。
 あのとき私が勿体ぶって紹介をさけた話を、今ここで披露することにしよう。

 物事を継続するための秘訣を説く著者は、物事を継続するための最大の敵を紹介している。
 それは目標を達成することそのものだ、と著者は言う。
 目標があるから人は続ける。しかし、目標を達成した途端、達成感と共に、今まで注いでいた情熱すらも解放されてしまう。一度達成している分、それにかかる労力を知ってしまっているせいで、止めたらもう一度火をつけるのは難しい。
 だったら達成したって続けよう、畢竟続けることが継続のやる気を保つ一番の方法なのだから、という話だった。目標の達成はあくまで通過点であって、まだ先にゴールがあるのだという話に、私は大いに共感していた。「そうだそうだ」と実際に声に出して相槌を打っていた。
 そしてその項の最後に、とある映画を紹介している。「フリーソロ」という映画で、命綱や安全装置無しで断崖絶壁を登るという命がけのクライミングに挑戦する人のドキュメンタリー映画だ。
 主人公であるアレックス・オノルドは無事前人未踏のエル・キャピタンに登頂する。実際に映画を見たわけではないので著者の言葉を借りるが、何年もかけて偉業を達成した後の彼の行動は、

登り切って、笑ったような、何かをかみしめるような顔をして、それだけ。

続ける思考

 その後、恋人に電話をかけ、今日のトレーニングがまだだからと、戻った後に何事も無かったかのように日課のトレーニングを始めたそうだ。
 その映画を通して、著者は達成との向き合い方はこれくらいで丁度いいのかもしれないと、著者なりの結論を出してこの項を終えている。
 
「続ける思考」の中で、エピローグと並んで一番好きな箇所だ。。
 好きな理由があまりに身勝手で申し訳ないが、達成感なんて要らないと思っていたことを肯定されたような気がしたからだ。
 正直な話、達成感を得られないから負け惜しみでこのようなことを考えているのだと、自分で思っていた。ある種コンプレックスに思っていたのかもしれない。何かを成し遂げても大した喜びも感じないし、満足することも出来ない自分が嫌だった。
 或いは、そのような大きな達成感を得られるような何かを、私はまだ為し得ていないのだ。単純に経験と実力が足りていないのだ。そう解釈していた。
 けれど、著者の紹介する映画の主人公は、偉業を達成してもすぐにまた日常に戻る。勿論彼の内側での喜びがどれほどのものかは本人以外には分からない。その場で小躍りしたり、叫び出したりしたいくらいに喜びに満ち溢れていたかもしれない。
 けれどその喜びに浸り続けることはしない。すぐにまた、次は何に挑戦するかを考えながらトレーニングに向かったのだろう。
 そう考えると、私のこの達成感を感じ取ることが苦手で、必要無いくらいだという考えは、実は物事を継続するためには非常に有利な特性なんじゃないだろうか?
 自分の嫌いだった部分が、直せるものなら直したいともがいた結果挫折し放り投げたことが、たった数ページの文章で、簡単にひっくり返った。

 私と同じように、何かを成し遂げても満足感や充足感が薄く、達成感に浸ることが出来ない方。
 そしてそんな自分に少なからず嫌悪感を抱いている方へ。
 もしかしたら貴方のその感じ方は、大事を為し続けるために重要な、一つの才能なのかもしれないよ。


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