小説「或る夫婦の話」 第二話

第一話→https://note.com/siltikl/n/n6702c6376582




 結局、昨日はあれから女に問い詰められることは無かった。いつも通り入浴をし、夕飯を食べ、他愛ない話をして眠った。一人で眠る時間が、男にとって唯一心安らぐ時だった。
 朝、男が起きると女はもう居なかった。メモと共に朝食が用意されていた。男は身を縮こませながら朝食を摂ると、のろのろと身支度をし、
「行ってきます……」
 半分溜息と化した挨拶をして家を出た。
 家から離れる男の足取りは、相変わらず重そうだ。煌々と己と町を照らす朝日を見ては溜息を零している。
 駅に着き、ぼうっと窓の外を見ながら電車に揺られ、また少し歩いて男の会社に到着した。オフィスに入ると既に皆デスクに向かっていた。どうやら男が最後だったようだ。そそくさと自らのデスクに向かうと、荷物を置いたところで朝礼開始の声がかかる。
 時計を確認すると、丁度いつも朝礼を行う時間になったところだった。いつも通りに家を出たつもりで居たが、思ったより通勤に時間をかけてしまった。恐る恐る上司の方に目を向ければ、ばっちり目が合ってしまった。慌てて男は視線を下に向ける。
 白髪が混じり始めた壮年の上司だが、視線はこの場に居る誰よりも強く鋭かった。皆頼りがいがあると口にしていたが、男は強い苦手意識を持っていた。
 男を含めた十名程が、静かに上司の話を聞いている。特に当たり障りの無い事柄ばかりだ。元よりそこまで多数の業務を抱えている男ではないが、今日も平穏そうだと、肩の力を抜く。抜きすぎて、口元が緩み、小さく欠伸を漏らしそうになったところで、
「シマ、後で確認したいことがあるんだが良いか?」
 危うく噎せるところだった。
 上司の視線がこちらに向いている。顔は穏やかに微笑んでいるが、目は全く笑っていない。獲物を見つけた猛禽の目をしていた。周りの視線も男に向けられている。好奇半分、心配半分といったところか。
「…………ふぁい」
 男はなんとか返事を絞り出した。喉の奥が乾ききっていたせいで間の抜けた声になってしまったが、誰も何も言わなかった。
 程なくして朝礼は終わり、皆着席して業務を開始した。男もパソコンを立ち上げ、初めにメールを確認する。すると上司から一件のメールが入っていた。
『業務が一段落したら第二会議室』
 簡素な文面のメールだった。送信日時は朝礼の前。最初から呼び出すつもりでいたが、メールだけだと男がしらばっくれかねないので、皆の前で話題に出すことで釘を刺したのだろう。
 男は顔を引き攣らせながら、急いで今日の業務に取り掛かる。仕事が終わらないからという理由をつけるためにもたもた取り組んでもいいのだが、周りに迷惑もかかるし、何より先延ばしにする方が恐ろしい。
 家は家で居心地が悪いままだが、職場もまた、男にとっては安らぎの無い空間なのだった。


ちょっと短いけれどキリがいいので。

第三話


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