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対話に飢えている

 最近哲学を学んでいる。といっても浅瀬に足を突っ込んでちゃぷちゃぷやっているだけなので、あまり期待はしないで欲しい。
 学生時代、哲学は好きではなかった。というか倫理の授業が本当に嫌いだった。単純に授業もつまらなかったし、「哲学者ってなんでこんな喧嘩ばっかしてるんだ?」と思って敬遠してしまった。一通り教科書を読んで、これは納得できるこれは納得できない、と一人で脳内会議をしては自分の創作に打ち込んでいた。悪い生徒である。
 ところが最近になって急に興味を持ち始めた。小さなきっかけとしては私の大好きな化学である。「化学と哲学に何の関係が?」と思われるかもしれないが、全ての学問の源流は哲学にある(と人の受け売りを話してみる)。化学も例外ではない。最初に「万物は知覚不能な極小のもの(=原子)で出来ている」と唱えたのはデモクリトスという哲学者である。尤もこの場合の原子と科学における原子では意味合いが違うらしいが、化学の源流に遡ろうとすると頻繁にデモクリトスの名が上がる。
 そして大きなきっかけは「世界のエリートが学んでいる 教養書必読100冊を1冊にまとめてみた」を読み始めたことだ。例の如く最初から少しずつ読んでいるのだが、丁度哲学者たちの著書から始まった。著者の語りも面白く、すっかり哲学に興味を持たされてしまった。嬉しいが、少し悔しい。

 今は「ソクラテスの弁明」を読んでいる。ソクラテスと言えば「不知の自覚」(無知の知の方が通りがいいことは知っているが、厳密には前者の方がよりニュアンスが近いそうなので不知の自覚を採用させてもらう)で有名である。
 語るまでも無いだろうが概略を説明しておこう。
 ある日神殿の巫女がソクラテスの知人に、「ソクラテスより賢い者は居ない」と告げた。思いがけぬ神の言葉にソクラテスは疑問を持つ。「自分は何も知らないのに賢いとはこれ如何に?」
 そこでソクラテスは、アテナイの賢人の呼ばれる人と片っ端から対話をして、賢人の間違いを指摘し、また賢人と呼ばれる人の元へ行き間違いを指摘して……、ということを繰り返した。その結果、「自分は何も知らないが、知らないという自覚があるだけ知っているつもりの人よりも賢いということなのだろうか」と考え始める。そうして更に対話を続け、最終的に既存の神を信じず若者を惑わしたとして裁判にかけられ、死刑となった。
 この「ソクラテスの弁明」は裁判においてアテナイ市民に事の成り行きを説明するものだ。といってもただの説明ではなく、傍聴人に対し対話を試みる形で弁明を繰り広げている。
 今日、正に「賢人たちに間違いを指摘したら憎悪された」という箇所を読んだ。私は「そりゃそうだ」と笑ってしまったのだが、すぐに考えを改めた。
 賢人、つまり知識を追い求める者であれば、「貴方はまだまだ知らないことばかりですよ」と言われたら、「無知なことを教えてくれてありがとう」と感謝する者が居ても良かったんじゃないかと。
 ソクラテスにとっても、知の追及をして一体何が悪い、むしろ皆も不知を自覚しようという思いがあったりなかったりしたかもしれない。
 まあ衆人環視の中で論破されたとしたら恥ずかしさで逆恨みしてもしようのない気もするが。
 純粋に知識とは何かを追い求めたであろうソクラテスのことを思うと少し切ない。
 そして他人事には思えない。

 私はよく「なぜ?」と疑問を抱く。それはもう一日に何千回の頻度で。大体口にしても良いことは無いので黙っているのだが、たまにどうしても我慢できず表明してしまう。そして大概壁が出来て終わる。
 先日も似たようなことがあった。
 仕事をどう教えるかについて上司が漏らしていた。上司曰く「皆業務内容と期限から何をいつまでに終わらせればいいのか逆算していない」らしい。
 私はこの時点で疑問しかなかった。
 得意不得意、未熟だという感想であれば分かる。だが、逆算していない?
 私の目から見ても要領の悪すぎる子は居て、次に何をすればいいかを考える能力が低いのだろうかと思っていたのだが、そうではない可能性が浮上してしまった。
 そもそも逆算せずにどうやって毎日生きているのだろうか。24時間という限られた時間をどう使うかを、皆考えていないのだろうか。
 学校の課題や試験勉強をするときに、「いつまでなら遊んでいられる」「いつから始めれば終わる」と考えたことは無いのだろうか。考えて計画を立てても上手く行動に移せないというのならまだ分かるが、計画すら立てたことが無いのだろうか。
 不思議に思い過ぎて、それから一時間以上頭の中が「逆算しないってどうやって生きてるんだ?」という疑問で頭がいっぱいになってしまっていた。
 あまりに頭の容量を食うため、つい口に出してしまった。逆算出来ないとはどういうことか、試験勉強の例を出して。
 そうしたら上司ではない別の人が「それは頭の良い人の考え方だよ」「(私)さんはINTJだから逆算が得意なだけだよ」と言われてしまった。
 得意不得意とかではなくて、逆算しないとは一体どういうことかを問いたかったのに。どうやって日々を過ごしているのか確認したかっただけだ。別に責めるつもりも無くて、理解をしたかったのだ。

 思うに、疑問を持つということはそれだけ理解したいという証ではないだろうか。哲学者たちのスタート地点も、既存の論や観念、現実を疑うところからだ。何なら学問は全て疑問を抱くところから始まる。その疑念を自分で解消して初めて、理解に繋がる。そこからまた新たな思想なり学問が始まって……、と、疑問は全ての始まりに存在する。
 私が色々なことを疑問に思うのも、知りたいからだ。特に人の心はその人自身か似たような考えをする人でなければほどけない。いくら推論を捏ねまわしたところで、あくまで推論だ。そんなもので理解した気になっていたのであればそれこそ恥知らずの無知者になってしまう。
 そういう訳で私は疑問の解消を目指して口にしてしまうことがあるのだが、大体いつも失敗に終わる。それどころか、「貴方にはきっと分からないよ」と勝手に線を引かれてしまう。
 何故だろう。否定されると思っているのだろうか。怒られると思っているのだろうか。自分のダメさ加減が情けなくなるからだろうか。論理的に説明できないのだろうか。
 否定の何が悪いのだろう。別に怒っている訳ではないのに。ダメな部分を自覚するところから成長が始まるのに、その改善の目を潰してしまっていいのか。どれだけ説明が下手でも聞くから、話してみてくれよ。
 勝手に理解する機会を奪わないでくれ。
 こんな調子で私の頭の中は際限なく疑問に塗れてゆく。宇宙を埋め尽くしかねない栗饅頭のようだ。
 弁証法で有名なヘーゲルは、否定を続けた先にこそ真なる知が存在すると説いた。では、否定を恐れ避け続けた先には、一体何があるのだろう。

 こんなしょうもない事案とソクラテスを一緒にしたら怒られてしまいそうだが、勝手に親近感を抱いてしまった。というか、現在身近に居る人よりも過去の哲学者の方が身近に感じるとは一体……?
 私も知を追い求めたい。そのためなら対話だって惜しまない。むしろ会話よりも対話をしたい。そうして対話を仕掛けてみるのだが、中々上手くいかない。
 誰でもいい。誰か、対話をさせてくれ。


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