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努力って楽しいよね?

 努力という言葉、皆さんはお好きだろうか?
 私は別に好きでも嫌いでもない。興味が無いとも言う。ただ、何かを頑張ることは好きだ。
 以前、努力が楽しくてたまらなくなる状態にする方法みたいな動画を見た。努力=辛くて苦しいという思い込みを変化させるという動画も見たことがある。
 正直な話、なんで一々こんなことを言うのか、意味が分からない。だって元々努力って楽しいものだろう?
 そう思っていたのだが、実は私の方が少数派なんじゃないかという気がしてきた。なので今日は、私の思う努力というものについて論じていこうと思う。

努力は皆しているはず


 別に私には努力をする才能があるとか、誰にも何も言われずとも自発的に努力をすることが出来る勤勉家とか、そういうことを言いたい訳じゃない。
 私だって嫌なことや苦手なことを頑張るのは苦手だ。出来ることならやりたくはない。
 私は運動が苦手だ。特に体育の時間に行われるような団体競技は本当に嫌だった。何が楽しいのかも分からない。持久走の授業の方がまだマシだった。苦しいけれど、一人で走るだけでいいのだから。
 故にそういうスポーツを上手くなろうとか、そういう努力はしなかった。今だってする気はない。やれと言われてもやりたくない。絶対に。
 だからといって、全ての運動という行為に絶対に労力を払いたくないかと言われるとそうではない。筋トレやウォーキングはむしろ好きな部類だ。自分一人で研鑽出来るから。正しいフォームを教わろうとすれば人と関わる必要があるが、基本的には一人で行うことが出来る部分が気に入っている。全く運動をしないのは心身の健康にも良くないし、軽く運動をする方が脳が活性化するという話もあるので少しはやっておこう、という打算もある。
 コミュニケーションについても同様だ。私は今接客業に就いているが、元々人と関わりたい性格ではない。むしろ遠巻きに見ていたい。自分がそこに介在してほしくはない人間だ。にも拘らず人と関わる仕事をしているのは、苦手を克服したいという側面もある。小説執筆において人間を知らないことは不都合が多いというのもある。
 こんな具合に、少しでもメリット、あるいは興味があることに関しては、私は世間一般で言う努力をすることが出来る。別に自分では特別努力しているとは思っていないが、自分がしていることを努力と言うのであれば、私は「楽しい」と胸を張って言える。
 そして同じように、人間というのは誰しも、自分が好きな領域なら努力をするものだと思っている。そしてそれを努力とは思っていない。
 あまりに当たり前すぎて、だから皆改めて努力をしようとすると出来ないと言っているのかと思っていたのだが、どうやら違う様子。
 動画上では「努力する人はそもそも努力を努力と思っていない」と述べていた。それはその通りだと思う。だがしかし、私自身に当てはまるかと言われたら違う気がする。私のやっていることは客観的に見て努力と呼ぶに値する領域に到達していないようにしか思えない。皆もっと頑張っているはず。
 では何故楽しいと断言出来るかと言えば、以下に詳述するがやりたいことをやっているんだから楽しいだろうという考えが元になっている。
 この状態をもしかしたら努力がしたくてしたくてたまらない状態(動画上では「努力脳」と述べていた)とするのかもしれないが……別にこんなの普通のことだろう? という考えが抜けない。

やりたいことをしてどうして苦しくなるのか?


 人から強制される、あるいは受験勉強や資格取得に際して外圧がかかって勉強しなければならない、みたいな状況は一旦置いておくとして。
 自分から「あれをやってみたい」「これを学んでみたい」と思った事柄に対して、何故頑張る気が起きないのか? と思ってしまう。
 自発的に始めたのに続かないとはどういうことだろう。初動の目標が高すぎるのか、あるいは低く設定しすぎてやる意味が無いと思ってしまうラインなのか。それは努力が出来る出来ないではなく、目標設定に誤りがあるだけではないのか。
 やり始めてから「思ってたのと違うな」と感じてしまうこともまあ、人間誰だってあるだろう。しかしそれはやり方が自分に合っていないだけであって、興味を持った物事自体は悪くないし、アプローチを変えたらいいだけだ。それがどうして努力出来ないことに繋がってしまうのか。
 私は、気分が落ち込んだり体調を崩したりして、日々行っていることが出来なくなることの方がストレスだ。動画で言うところの「努力脳」とやらが出来上がっているのかどうかは知らないが、楽しいことが出来なくなることがストレスで仕方がない。
 まあこれは、私が何かを学ぶことが好きで、そういう動画を見ている人は学ぶことが苦手、あるいは苦手だと思い込んでいるから発生するものなのかもしれない。興味はあるけれど、学ぶことは苦手だから続けられない(と思い込んでいる)といった具合に。実際、私も運動や対人に関しては出来ることなら何もしたくないと思っているのは、先も述べた通りだ。
 自分が出来ているから他人も出来て当たり前、と思ってはいけない。
 しかし私は自分が不出来だと思っているから、こんな自分にすら出来るのに何故もっと優秀であるはずの周りは出来ないのか? という思考に陥ってしまう。

根本的な原因はハードルの上げ過ぎか?


 以前「INTJは他人に厳しい?」という記事を書いた。
 それから暫くして、また似たような記事を書いている。
 当時よりも考えを深めた結果、私は色んな物事のハードルを上げ過ぎなんじゃないかという疑問に行きついた。
 根本的に、大体の物事に対して「これくらいやって当然」「これくらい出来なきゃ駄目」「こんなので満足してちゃ成長しない」「ここまでやって初めてスタートライン」といったような考えを抱きがちだ。これらは他人にはあまり働かず、自分に対しては強く働く。
 何故かと言えば、「皆これくらいやっている」という社会の目を自分から創り出しているから。
 昔から「皆これくらいやってるのに!」と言われて育ってきた。「私の言う『皆』は否定するのにお前は勝手に居もしない『皆』を創り出すんだな」と子供ながらに可愛くないことを考えていたのだが、気付けば私も謎の社会の目を創り出す側になっていた。しかし私は「『皆』やってるのにどうして出来ないの」と言われるのが嫌だったから、自分にだけ社会の目を適用することにした。架空の『皆』はいつも完璧で、私はそれに後れを取らないよう必死だった。
 そして蓋を開けてみれば、どうだろう。そんな『皆』は居ないし、なんなら言い方は悪いが自分が考えているよりも随分程度が低いところで思い悩んでいるように見える。「私の考えてた『皆』はどこ行っちゃったの??」と、一人で自分が生み出した幻想を探して彷徨っている。
 自分でまとめて思うが、滑稽すぎないか? 自分の理想を押し付けておきながら、自分の理想に反した行動を取れば「〇〇はこんなことしない!!」と発狂する厄介オタクと何も変わらないではないか。
 そしてINTJ全般に話を広げて大変申し訳ないのだが、多かれ少なかれ同じようなことをしているINTJは居ると思っている。特に16Personalitiesで言うところのINTJ-Tはこういう人が多そうだと思っている。多大なる偏見だ。
 もしくは、「自分がこうなんだから周りの人も当然こうだよね? 違う人はなんなの? 人間じゃないのかな?」といった思考だろうか。理想の高さ、或いは自分を最低ラインに据えることが、INTJが人に厳しいとか人を見下しているとか言われてしまうところなのではないかと思い至った。

まとめ


 努力の話から私、そしてINTJの価値観に対する仮説にまで話が及んでしまった。
 一つ言っておきたいのは、何度も述べているように、私は自分が優れているとか周りが劣っているとか言いたい訳ではないということだ。
 向き不向きというか、適材がここまで違うということに驚いているというか、そういう話だ。自分の劣っているところならいくらでも挙げられるから、興味がある人は訊ねてみて欲しい。恐らく今までのどんな記事よりも長くなるだろう。
 こんな性格だから何に於いても達成感を得られないんだろうなあと、ある種コンプレックスに近い想いを抱いていた。今までは。
 今は達成感なんて無くて良いんだと心から思えるようになった。その理由は……、これを語るのは、またの機会とさせてもらおう。


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