共感について考えてみた

 相手の話には共感しましょう。
 恐らく大多数の人が共感というものの偉大さを知っている、或いは説かれたことがあるだろう。
 しかし私はこの共感というやつにいまいち疑念を抱いている。それは私の中の感情でもあるし、よそで「共感」と言われているものについてもだ。
 そこで今回はこの共感というやつを深堀してみようと思う。

そもそも共感とは?


「weblio」によれば、共感とは「他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち」らしい。相手の気持ちを理解した上で、自分も同じ感情を抱くことで初めて共感と言える。
 なるほど。
 無理だな。
 同じ人間でもない限り全く同一の感情を抱くことなんて出来ないだろう。今まで共感した、してもらえたと思っていたのは過ちだったのか。
 ……という極端な話はさておいて。全く同一の感情体験ではなく、集合の共有部分のように少しでも重なる部分があればそれは共感したということにしよう。ずっとハードルが低くなった。

「共感しとけ」って、それ本当に共感ですか?


「女の話にはとにかく共感しとけ」
 流石にここまで前時代的な物言いをする人は居ないだろうが、SNSや動画のコメント欄にて、配偶者や恋人の話にはとりあえず「うんうん分かる」って相槌打ってるという人が散見される。それを共感と呼んでいる。
 ここで先程の定義を確認してみよう。この人達の行動を照らし合わせてみる。
 ……共感なんてしてなくないか?
 そもそも話も聞いていない。
 確かに自分の意見には賛同しか求めない! という人間は居る。男女問わず居る。そういう人間に対して反論をしようものなら火に油だろうから、大人しく相槌を打つというスタンスになるのは分かる。
 しかし、全く聞く耳持たない暴れ牛のような人間がそう居てたまるかと思うのだが、私だけだろうか。全員が全員、暴れ牛をパートナーに持っているとはとてもではないが思えない。
 それとも世の女性は私が知らないだけで、バッテリーのコピペくらい酷い人だらけなのだろうか。恐れ入った。基本的に解決策しか提示しない私が許されている方が稀有なのだろう。ははは。ちなみにこのコピペ、女が酷いのは当然として、男のコミュニケーション能力も大概だと思う。
 冗談はさておき、どんな話であろうとはいはい適当に相槌を打って聞き流している時点で、共感性の欠片も無いのに「共感」と呼ぶ烏滸がましさに驚いてしまう。怒られた過去があるとして、それは本当に共感しなかったから怒られたのか? 下手な横やりを入れたり見当違いの解決案を提案してどや顔をしたりしたからではないか? 人の話を聞く能力が足りているのか、一度自分に問いかけてみよう。
 そして話を聞いてもらっている側にも問いたい。そんな薄っぺらい共感でいいのか? 話を聞いてもらえていないのに話していいのか? とにかく吐き出したいだけなら紙に書き出してぐしゃぐしゃ丸めた方がよっぽどいいと思うが。それくらいの手間も惜しんで手近な人間をカウンセラーにしようとしているんなら適当な相槌返されてもしょうがないぞ?

共感って女性だけのものか?


 根底にあるのは「男は問題を解決しようとする、女は問題で生じた悩みに共感だけしてほしい」という風説が原因なのではないか。
 そういう傾向があることは否定しない。MBTIの思考⇔感情で見ても男性の方が思考タイプを持っている傾向に……、と思ったが身の回りを見たらそうでもないな。この話はやめにしよう。
 話を戻そう。何故風説と断定したかと言えば、人間誰だって共感が欲しいときは共感を求めるものではないか、という考えに由来する。
 私は昔2ちゃんねる(現5ちゃんねる)のまとめサイトに入り浸っていた素行不良な人間なのだが、中でも家庭系のまとめが好きだった。人間性に難あり。
 当然男性女性どちらの書き込みもまとめられていたのだが、男性が書き込んでいる板のとあるスレでは愚痴と共感しか書き込まれていなかった。離婚したら? という書き込みに対してもうだうだと言い訳を並べ立てて誤魔化している。あれ、問題を解決しようとするのではなかったか……?
 意地の悪い言い方をして申し訳ない。先程も述べた通り、男女問わず人間という生き物は共感して欲しいときは共感してほしいものだろう、というのが私の立場だ。故に憩いのひと時にそれを求めることはなんら可笑しくはない。
 問題は女性の愚痴=共感しなきゃと思考停止で思い込んでしまう人間が存在していることである。そこ男女で区切る意味あるか? 愚痴は誰だって吐き出して満足するもんだろ。相談になって初めて解決策を求めるのであって。
 共感の話以外にも「いやそれ人間なら誰だってそういう側面あるだろ、なんでそういう括り方するんだよ」と思うことは多々あるのだが、大分脱線してしまうのでまた後日。

共感から入るのって大事か?


 反対意見を言うときは一旦共感を示してからにしよう、と言われているように思う。
 しかしこれは真実だろうか。
 確かに小ばかにしたり罵倒したりしながら否定をするのは良くない。ただ、理路整然と反論するのは別に悪いことじゃないと思うのだが。
 それに上っ面の共感など邪魔なだけじゃないか?
 私の場合、何度も何度も共感から入られると「私が否定意見を言われただけで激昂し暴れ出す程短慮で浅はかで考えなしの直情的な愚か者に見えているのだろうか」と疑い始めてしまう。余計なトラブルを生みかねないだろう。こんな風に穿った見方をするやつ、私だけかもしれないが。

私なりの「共感」


 さて、ここで原点回帰。共感の定義に立ち返ろう。
 共感とは、相手の気持ちを理解した上で、同じ気持ちを抱くことであった。
 であるならば、私は真の意味で共感は出来ない気がする。
 理解することは出来る。けれど同じ感情を持つことは難しい。だって貴方は貴方で、私は私だから。
 なんなら理解出来ないときだってある。感情機能が強すぎる人の考えや気持ちは私には到底理解出来ない。
 けれど、理解しようとは思っている。
 同じ感情を抱くことは出来ないけれど、その考えや感情を否定もしない。疑問は持つと思うが。
 そして直面する問題や悩みに対して、出来るだけ建設的に解決出来る策を探す。
 これこそが、私の思う、そして私に出来る「共感」の形だ。

 ……なんて格好つけてみたはいいものの、あまり過度な期待は持たないで欲しい。共感「したくない」ことだって、世の中にはごまんとあるからだ。そして私は共感出来ないことよりも、共感したくないことの方が大多数。当記事でぼこぼこに発言している部分があるのはそういうことである。
 やはり共感は、私には難しいことなのかもしれない。諦めませんがね!

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