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拝啓、過去と未来の私へ。

 昔から話すのが苦手だった。
「自分の意見を言ってごらん」「何でも良いから行ってみな」こういう風に言われても、何も言えなかった。
 本当に「何でも」話すと激怒される家庭環境だったというのもあるが、昔から自分の気持ちを口にするのはどうにも向かなかった。
 あまりにも自分から話さないので、何も考えていないと思われていたかもしれない。実際は全くの逆で、私の頭の中は常に言葉で溢れていた。
 私を泣かせて先生に怒られた子に、私がすぐ泣き止んだことを「ウソ泣きだ」と責められたときも、クラスメイトどころか先生にさえ体型を弄られ笑われた英語の授業中も、理不尽に責め立てられても言い返せずに悔し泣きしか出来なかったときも、本当は言ってやりたいことで一杯だった。
 しかし私は、どうしても想いを口にすることが出来なかった。

 昔から文房具が好きだった。
 ノートや鉛筆、シャープペン、ボールペン。自分の好きなデザインのものを見つけては、性懲りもなく買っていた。使い切っていてもいなくてもお構いなし。今でもそれは変わらない。
 買ったノートやペンはすぐに使った。家でも学校でも、好き勝手に書いた。
 漢字を覚えたらノートに書く。新しい言葉を知ったらノートに書く。覚えたいことをノートに書く。もうとにかく何でも書いた。今見たら鼻で笑ってしまうくらい、ポエムに満ちた日記も書いた。
 不思議と、紙に書くときはすぐに言葉に出来た。もやもやした気持ちをすぱりと言い表せる言葉が見つかると嬉しかった。見つからなくても書いた。もやもやを敢えて残したいときはそのままにした。
 今でもそれは変わらない。どうしても吐き出したいことがあれば、私はいつもノートに書く。
 私の一番の友達は、もしかしたら人ではなくてノートとペンだったりして。

 中学生のとき、それはもう周囲に馴染めなかった。本を読んで授業で挙手をして答えようとするだけで「気取ってる」「生意気」と言ってくるような馬鹿共しか周りに居なかったので、それはそれは地獄だった。
 そうは言ってもあのとき死なずに済んだのは、何人かの友達と、一人の先輩のおかげである。
 ストーカーと言っても過言ではないくらい、一人の先輩に付きまとっていた。今思い出すと申し訳ないやら恥ずかしいやらで文章にするのも忍びないのだが、大切なことなのでここに記す。
 その人のことはS先輩としよう。
 同じ部活の一つ上のS先輩と、どういうきっかけで仲良くなったのかは全くもって覚えていない。覚えているのはいつも犬の様に付きまとっていたことと、手紙のやりとりをしていたことだけ。
 その手紙だって、何を書いていたか覚えていない。恐らくお互いの好きなことやS先輩の好きな音楽についての解説とか、互いの悩みなんかを書いていたような気がするが、悲しいことに詳細はさっぱり覚えていない。良い思い出はいつも勝手に私の元を去っていく。
 けれどあの手紙のやりとりが、私の拠り所の一つだったことだけは、確かに覚えている。
 想いを書いて、想いを書いてもらって、読んで読まれてのやりとりが、私の記憶のごみ箱の中で、未だに輝きを失うことなく煌めいている。

 高校生のとき。大分環境が変わった。馬鹿共のほとんど居ない学校に入学出来たからだ。
 相変わらず周囲から浮いてはいたが、周りも周りで変人が多かったので、そこまで悪目立ちしなかった。
 当時は今よりボーカロイドが好きで、彼ら彼女らの歌を聴いては頭の中でストーリーをなぞっていた。なぞるだけでは飽き足らず、自分なりに書き出してみることにした。
 加えて、掲示板のSSも読み漁っていた。面白い作品に出会った後は、自分だったらどうするか考えて、それも文章に起こしてみた。
 この前掃除をしているときに当時のノートを発見したが、まあ恐ろしく拙い文章だった。文法は最低限クリアしているが、当時の自分の性癖を隠しきれていない、隠す気もない代物だった。具体的にどんな文章だったか記す度胸も無いし、現実のごみ箱に直行させたおかげで再現不能だが、創造で補完頂けると有難い。きっとその想像より酷い。
 あろうことかその文章を、仲の良い友達に見せていた。馬鹿はお前だと過去の自分に言ってやりたい。無理矢理読ませたことすらある。本当に馬鹿としか言いようがない。
 こんな過去、黒歴史だと思うし今でも羞恥心で一杯だが、不思議と後悔したことはない。

 あれからもう何年も時が経った。未だに私はノートとペンを買い込んで、多数のノートを持ち歩いている。思考を整理するときはいつもノートに書き込んでいる。創作活動も細々と続けている。
 あのときよりも文章力は上がった。言葉にするクオリティも上がった。自分ではそう思う。
 会話も昔より格段に上手くなった。口にしてからまとめようとするせいでまごつく癖は抜けないけれど、昔よりはずいぶんマシになった。
 同時に、私よりもずっと文章が上手い人がたくさんいることも知った。筆が速い人も、発想力豊かな人も、全てを持っている人も、たくさん見てきた。自分が読みたかった物語に近いものを書く人も居た。
 最初私は、自分の思いが言葉に出来なかったから、書くことで発散していた。
 そうして物語を自分でも書いてみたいと思って書き始めてみた。
 今、私は拙いながらも言葉にする術を得た。
 今、私は物語を書くことに二の足を踏んでいる。

 それでも私は書いている。

 文通の様に、絶対に読む相手、読んで欲しい相手が居る環境に身を置いている訳でもない。
 常にどうしても書きたいものがある訳ではない。
 それでも私は言葉と感情に押しつぶされそうになって、気付けばペンを握っているし、キーボードを叩いている。

 マグロやカツオに代表される回遊魚の多くは、泳ぐことにより口から海水を取り込み、海水中の酸素を体に取り込んで呼吸をしている。そのため、泳がないと呼吸が出来ず、死んでしまう。
 私は一日中、何かしらの思考をしている。朝は何を食べるか、朝食の後は何をするか、今日はどこに行くかと言った軽微なものから、人は何故対立するのか、何故争いが発生するのか、何故「何故」と問い続けてしまうのか、と言った深淵なものまで様々である。
 当然だが、同じ思考がずっと頭を占拠していると、すぐに脳が疲れてしまい、パフォーマンスが下がる。故に外に出してやる必要がある。
 私の場合、出力の方法として最適なのが書くことだ。書くことで頭の中が整理される。書くことで考えていたことの本当の意味に気付く。書くことで新たな考えが生まれる。
 私にとって思考は生命活動の一つであり、書くことは回遊魚が酸素補給のために泳ぎ回ることに近い。生命活動に直結しているため止めることが出来ない、生業だ。
 この生業というのは厄介なもので、止めたくても止めることが出来ない。回遊魚が生業を止めたいと思ったことがあるかは分からないが、怠惰な人間である私は「今日は休もうかな」と思うことがある。
 実際、昨日はほとんど執筆をしなかった。思考整理でノートを用いる時間はあったが、こうして一定の分量の文字を記すことはしなかった。
 そうしたらどうなったかと言えば、まあ体調の悪いこと。以前精神の不調で毎日行っていた創作活動を中断したとき、目に見えて精神状態が悪化したことを思い出した。私は何か書いていないと死んでしまうんだ。

 書くことが生業であることを再認識するに至ったのは、こちらのNoteがきっかけだ。

 詳しくは当該Noteを読んでいただきたい。書くことを趣味、あるいは職業としている人にとって、このNoteは非常に心打たれるものとなるだろう。
 私が一番好きなのは、次の部分だ。

物書きならば、ファンで終わってほしくないんだ。
物書きであるならば。
「あなたは私の敵です」って言ってほしいんです。

 書くことは生業だが、読むことも私の生業である。書くことは呼吸だと記事にしたことがあるが、読むことは言わば食事だ。
 世界最小の鳥であるハチドリは、花の蜜を主食にしている。止まれる枝の無い花の蜜を、一秒間に55回以上の羽ばたきを行うことで揚力を得てホバリングをし、蜜を吸う。その飛び方から非常にエネルギーを消費するので、一日中花の蜜を探して飛び回っている。
 同じように私も、思考の種を探して本を読み、記事を探し、SNSを彷徨っている。一日中、時間の許す限り。
 そうして色々探し回っていると、思わず膝を打ちたくなるような表現に出会う。このNoteもそのうちの一つだ。
 そんな文章に出会うとどうなるか。
 書きたくて書きたくてたまらなくなる。

 書くことは生業だと述べたが、畢竟それは思考のための補助輪であり、どうしても書かなければならない訳ではない。話すことでも絵を描くことでも、外に出せるなら何でもいい。たまたま私の場合、書くことが一番楽だったというだけで、別に書くことに固執する必要はない。
 それなのに、私は別の意味でも書くことを止められない。
 理由は単純、悔しいからだ。
 私は「負けず嫌いだ」ということを認めることすら悔しくなってしまうくらい、筋金入りの負けず嫌いである。
 ゲームでは内心穏やかに笑っていても「絶対勝つまでやってやる」と闘志に燃えているし、それが許される間柄であれば闘志を隠そうともしない。
 書くことも同様で、良い文章に出会うと「これを皆に教えたい!」と思うと同時に「私もこんな風に誰かの心を動かしたい」という欲が湧いてくる。
 このプロセス、私の中ではごく自然なことだったのだが、改めて考えてみると、自己矛盾が生じていることに気づいた。
 書くことに固執する必要は無いはずなのに、私は書くことに固執している。

 当該Noteの最後に、自主コンテストのお知らせがあった。
 目論み通り書くことに火を点けられた私は、このコンテストへと足を向けた。
 そうしていつも通り思考をノートに書き出して、気付いた。
「生業」の二文字では、どうしても書かないといけない理由には足りていない。
 そして同時に、本当の答えにも気付いた。
 答えをくれるのはいつも、過去の自分である。

 以前記事に起こしたこともあるが、私はいつも、この世界に居る、自分のようなはみ出し者に向けて言葉を紡いでいる。
 その誰か、というのは一体誰なのだろう。
 世界中のどこかしこで使い古されているフレーズだと思うし、自分でも笑ってしまうくらい陳腐だと思うが、敢えて書こう。

 過去の自分に届けるために書いている。

 私の今までの体験など大したことは無い。私の感じた苦しさなど、鼻で笑ってしまうくらい軽微なものだと感じる人も居るだろう。
 なればこそ、私に届く文章を書くことが出来るのは、私だけである。
 あのとき無意味に傷ついていた私へ。言い返す言葉が思い浮かばず悔し泣きしか出来なかった私へ。不条理に捻くれた答えを出し、思考停止してしまった私へ。
 過去の自分をぶん殴って目を覚まさせてやれるのは、この世界においてただ一人。私だけなのだ。
 恐らく未来の私も、この文章を読んで「ぶん殴ってやろうかな」と思う日がきっとくる。
 その日のために、私は今日も文章を書いている。
 そして、そんな私の自分勝手な文章が、今この世に居る誰かの胸に響くことがあったなら、それだけでもう私は生きていてよかったなあと実感できる。

 これこそが私の導いた、何故書くかという問いに対する最大の答えである。
 どこまでも自分勝手で申し訳ない。自分だけでなく、もっと崇高な目的のために文章を書いている人にもぶん殴られそうである。
 しかし、よく考えてほしい。
 自分を救えないまま誰かを救おうなんて、自分の生活も立ち行かないのに募金をするようなものだろう。昔話や寓話ではそういう振る舞いを清貧と捉え、善い行いだと説いているが、私はそうは思わない。真の意味で人を助けるなんて大義を為せるのは、自分で自分の身を立てた者だけだ。
 私は未だ、過去に囚われ生きている。こんな状態で「誰かの心を救う物語を書きたいです!」なんて、冗談だとしても笑えない。
 誰かの心を動かしたいなら、まずは私の心を動かさなければならない。
 今以上に捻くれた、視野の狭い、頑固者の心を、である。かつその唯一の読者は、誰よりも私に厳しい目を向けている。正直挫けそうになる日もある。実際昨日は挫けかけた。
 それでも、本当の意味で止めようと思ったことは一度たりとも無い。
 敵が強大であればあるほど闘志を燃やす、そういう面倒くさい人間だから。
 
 今日の私の文章で、過去の私は笑ってくれるだろうか。
 今日の私の文章は、未来の自分がぶん殴りたくなるくらい、酷い文章だと思ってくれるだろうか。
 そんな自問自答を繰り返し、明日も生業は続く。

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