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休んでいても、私には価値がある

今日は久々に家で「のんびり時間」を過ごした。

ここ1週間ほど、何かに追われるように毎日6:00には起き、散歩に行き、出かける日もお休みの日も、勉強時間や音楽の練習時間をいつもの倍以上に増やしていた。2月から勉強時間を記録するアプリを使っているのだが、毎週2時間ずつ目標を増やし、それでもそれを容易に越すくらいには勉強していた。
身体に症状が出るようになって初めて、「頑張りすぎでは?」ということに気づき、訪看さんに相談して「のんびりする方法」を一緒に考えた。

私は、いつも頑張りすぎる。
「のんびりする方法」を支援者と考えなければ、分からないくらいだ。
そして、頑張りすぎていることになかなか気づけない。

高校2年生で本格的に心を壊すまで、学校の休み時間や通学時間は、すべて課題曲を聴くか、勉強をするかにあてていた。友達と遊んだりおしゃべりをするよりも、その方が時間を効率的に使えるからだ。心を壊してからも、保健室で必死に課題をこなしていた。それくらい何かに取り組んでいないと、自分に価値を見出せない人間なのだ。

「何もしなくていい」という時間が存在するのを知ったのは、精神科に初めて入院した時だ。病棟にも資格の参考書や楽譜を持ち込み、毎日体調が悪い中取り組んでいる私を見て、看護師さんたちは口を揃えて、
「今は休むのに専念しなさい」
と言ってくださった。
最初は抵抗があったが、作業療法の時間に子どもの頃ぶりに塗り絵やものづくりをして、初めて自分の心に「楽しむこと」を許してあげられた。それからは、入院中は塗り絵や点つなぎ、めいろをして過ごすようになった。

そして、そのような「心を休める」過ごし方はきっと病棟の外でもしていいのだ。疲れたら休めばいいし、自分が自由でいられる時間を作ってもいい。そのことを自分に許してあげてもいいのだ。

今日は病棟にいた時と同じようなことをして過ごし、長時間の昼寝もした。
それでも「私」という人間には価値がある。何より「療養中」の身なのに、毎日身体が壊れるほど勉強をしていたら、それはもう「療養」ではなくなってしまう。

私もあなたも、「生きている」というだけで価値がある。
何もできなかった日も、「休めた自分えらい」マインドでいこう。
この人生は、きっと楽しむためにあるのだから。




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