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「困難な若者」を「可哀想だ」という大人へ

※ここでは「若者」の視点として述べていますが、「全ての方」に対してこのように考えています。ただ、私が若者の視点しか経験がないため、このように書かせていただきました。

ここ数日、「君は可哀想だ」と暗に言われることが多い。

例えば家族が、節約に節約を重ねている余裕のない生活の私を「可哀想だ」と言った。「困難な若年女性について」という内容の講座で、「可哀想な救うべき」対象として「定職に就けない困難な女性」を語っていた。

余計なお世話だ。

生活苦と単に食欲がないという理由で、2日間食事を抜いた後食べたコンビニのおにぎりの味がどれほど美味しいか。私は家族旅行で行ったどの旅館の食事よりも、レタスの上にプチトマトをのせたサラダを、大好きな動画をみながら食べる方が何倍も美味しい。親に買ってもらった洋服よりも、自分で買ったユニクロの部屋着の方が可愛い。親と行った美術館よりも、入場無料で入れる近場の公園の自然を眺める方が、ずっと楽しい。

強がりではない。親の趣味で動かされていたあの頃より、自分の趣味で、自分の思うままに行動できる今は、自由で幸せに満ちている。

「困難な若者」を「可哀想だ」と語る人々に問いたい。
あなたは、虐待を受けて家を飛び出し、身体を売って生活している彼女たちの思いを聞いたことがありますか?
住む場所もなく、自傷や自殺未遂を繰り返し、病棟が唯一の居場所だという若者の声を拾えていますか?

私は、病棟で様々な事情をもった人々と出会ってきた。彼らは、居場所の無さに苦しみながらも、それでも自分の「幸せ」を探して「生」にしがみついていた。「死」へと向かいながら、必死に「生」を求める矛盾した気持ちを抱えて、病棟に着いたときにやっと息が楽になる。もちろん病棟も居場所にならず、さらに放浪をする方も多い。

私は、彼らが可哀想だとは1mmも思わない。むしろ尊敬するし、経験値のない大人よりよっぽど強いとすら思う。だって、彼らは、私たちは、ものすごい荒波に飲まれながらも、生きているのだから。

「可哀想ではない」ということは、「じゃぁ助けはいらないのね?」ということとイコールではない。助け‥というか「伴走」は必要だ。彼らが欲したときに、彼らの隣で伴走できる場所や人は必要だし、それが探し回らなくても街の中にひっそりとあれば良いのだと私は思う。「助けるよ!!」と大声で言っても、「いらん」となる気がする。私も含め、彼らは「助けてくれる大人」に慣れていないから。

これらは、あくまで私の考え方だ。色々な考えを持つ人がいていいし、色々な支援の方法があっていい。ただ、「可哀想だ」という視点から見るのは辞めてほしい。私たちだって、私たちなりの「幸せ」と共に生きているのだから。

いつか「困難な若者」でなくなる時がきても、私は今の気持ちを忘れずにいたい。衣食住があり、好きなことを「好き!」と言えること。そのことにいつまでも感謝できるような、そんな人間でいたい。



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