詩と哲学と絵画から読み解く、人間と動物の関係
〜はじめに〜
このNoteを書いていたら。昨日起こった事件から、今日本で最もセンシティブなキー・ワード3つが入っている文章になってしまった。
私は、今今の出来事をほとんど取りあつかわない。この文章は、最新のニュースに何か言及するものではない。偶然だ。
あしからず。
アニメ映画『The Iron Giant』は、1968年に出版されたSF小説『The Iron Man』に、着想を得たものである。
今回の話のメイン人物は、この原作者、テッド・ヒューズ。
『PLUTO』の配信開始を指折り数えて待ったり、(一番好きな映画監督であるノーラン監督の作品でも)『インターステラー』の キー・“パーソン” は CASE と TARS だと思っていたりと……
私は、人間と「ロボ」が関わりあう話が、好きなのだ。
Robo と Lobo たまたま言葉が似ているだけだが。Lobo はスペイン語で狼。
日本では『シートン動物記』の1つとして有名な、狼王ロボの名前の由来は、これである。
シートンの実体験や直接の見聞をもとに描かれていて、彼の著作の多くが、ノン・フィクションと呼べるものだという。
今回は、人間と動物の関わりあいについて。
詩人 テッド・ヒューズ
哲学者 ジャック・デリダ
画家 マルク・シャガール
主に、この3人の作品や思想を介して、書いてみる。
飽きずに読み続けられるように、工夫する。
がんばって、最後まで読んでほしい。
冒頭に出した『The Iron Man』を書いたのは、テッド・ヒューズという英国の桂冠詩人だ。
彼は田舎育ち。実家はタバコ屋。10代の頃から詩人になることを志していた。高卒後、英空軍で無線整備士として数年働く。その後、奨学金でケンブリッジ大へ。人類学と考古学を専攻し神話も研究した。在学中から、いくつかの詩を発表していた。
そんな中、出逢った女性と結婚。彼女も詩人。『雨の中の鷹』が詩のコンテストで優勝。英国と米国で出版された。妻の助言のおかげも大きかった。子どもを2人授かった。次第に夫婦仲が悪くなり、別居。離婚成立前から他の女性と生活。妻が自殺。世間から激しく非難された。
愛人も彼の子を出産。妻の自殺から6年後、彼女も自殺。キッチンにガスを充満させるという同じ方法で。今度は、子どもも道連れに。(幼子を殺害したのは父親ではなく母親であることは、動かぬ事実だが)より激しく世間から非難された。フェミニスト団体から「殺人犯」と呼ばれた。
妻や愛人と何があったのか、生涯、公的な発言はせず。最後の作品『バースデー・レターズ』で、それについて、いくばくか暗示したのみ。
ヨーロッパの文学的栄誉を数多く受賞。1984年から亡くなるまで、英国桂冠詩人に任命されていた。
ヒューズの作品には、動物が頻繁に登場する。
カラスを神・人間・鳥の融合体として扱ったものが、最も有名か。
ただの和訳ではダメだろう。詩という芸術なのだから。凡なセンスの私にできるだろうか。諦めても何にもならないから、やってみる。
カラスは判断した
自分が白いのは太陽が白すぎるからだと
ギラつく目でにらみつけてくるアイツは白すぎる
攻撃して打ち負かすことに決めた
力をふりしぼりめいっぱい輝いた
爪をたてて怒りを爆発させた
クチバシで太陽のど真ん中を狙った
心の真ん中で自分を笑いながら
攻撃した
戦いの叫び声は木々を一気に枯らし
影は平らになった
それなのにヤツは明るくなったーーさらに明るくなったんだ
カラスは白から黒こげになった
口を開いてはみたが
そこから出てきたものも黒くこげていた
「向こうでは」
なんとかこれだけ発した
「白が黒で黒が白の場所では私が勝つ」
前回、『脳男』(これの主人公には何度泣かされたことか……)という小説について書きはじめたら、文字数が倍になってしまうためと、内容にはあえて一切ふれず。私が作品の大ファンであることだけを記した。
今回は、文字数がいきすぎることはなさそうなので、少し寄り道をしてみる。
『悪の教典』の主人公は、自宅に時折とんでくるカラスに、いたずらに名前をつけていた。身勝手な理由から、フギンと呼ぶ方のカラスを感電死させる。相方を殺され「お前もいつでも殺れる」と言われた、ムニンと呼ばれる方のカラスは、その漆黒の瞳で彼をじっと見つめた。
まるで、人の「悪」を観察するかのように。
思考を意味するフギンに対し、ムニンは記憶を意味する言葉。ムニン、パートナーの仇をしっかりと記録できたかい?かわいそうに。
北欧神話で、オーディンのかたわらにいるのが、フギンとムニンだ。この2羽のカラスが、世界中の情報を収集し、神に伝えていると。
伝書鳩ならぬ伝書烏だ。
※以下ネタバレ
この作品の主人公は、大量殺人犯である。彼に不信感を抱き、素性を探ろうとする少年と少女は、フギンとムニンの比喩である。
さらに細かくいえば。
頭脳派である少年は、思考のフギンである。実写版のラストでは、ビジュアル的にも、少女とムニンは重ねられている。
『悪の教典』は、実写化のかなりの成功例だと思う。
原作の良さをいい意味で裏切っている。小説の中の主人公は、そのまま実写の中には出てこない。結果、魅力的なキャラクターが2体誕生している。私的に、主人公のアメリカ生活を描いた部分は特に、原作よりも実写の方がいい。
音楽の使い方も秀逸だ。
『Mack The Knife』は、オペラ『三文オペラ』の劇中歌『メッキー・メッサーのモリタート』をジャズ・アレンジし、英語歌詞にしたもの。今まで、多くの歌手が歌ってきた曲。シーンにあわせて、この2種をうまく使いわけている。
『三文オペラ』を書いたのも、『メッキー・メッサーのモリタート』の歌詞を書いたのも、ベルトルト・ブレヒトだ。彼についても書くと、長くなりすぎてしまう。こういう時は、他力本願!
「彼がいなければ、今のイギリス演劇はないと、断言できる」という動画。この方、お詳しそうだ。お智慧を拝借。
ヒューズのカラスの詩に、話を戻す。
この詩は、妻と愛人と子が自殺したことによる彼の精神的苦悩を表するものーーだとして、他者から読まれることが多い。
しかし、本当にそれだけなのだろうか。
この作品の中で、カラスは、創造者であると同時に破壊者。“普通” の善悪の概念をもたない存在。神の道化のような立場。神にとって代わろうともする者。そのように、表現されている。
わかりやすく、トリック・スターだ。
度々、本線から外れて、申し訳ない。
『なるたる』というマンガがある。私は、同じ作者さんの『ぼくらの』よりもすぐれた内容で、傑作だと思っているが。
まわりにオススメできるかというと……性的 × グロの描写や、少年少女がひどい痛みを受けるシーンがあるため、なんともいえない。
今回の話と、一切関連がなければ、もち出していない。
作中の少年少女らは、それぞれ、特殊な力をもつ。彼ら彼女らは、竜骸(りゅうがい)と呼ばれる、動物とロボの間のような存在を操るのだ。両者は、不思議な縁や絆で結ばれている。
主要キャラクターの1人が扱う特殊能力が、たしか、トリック・スターと呼ばれていた。
※以下ネタバレ
彼は、世界をぶっ壊して、リセットすることに決めた。
破壊者かつ創造者など、ヒューズの描いたカラスのアイデンティティー(先述を参照)とこのキャラクターのアイデンティティーには、多くの共通点がある。
ヴィシュヌとシヴァのことを書いた回。関連回といっていいと思う。
さすがにこの歌は、タイトルしか関連がないだろうと、思われるだろうか。そうでもない。歌詞の内容には、かぶるものがある。
彼の歌うリスタートは、世界を壊すことではなく、己の殻を破ることだが。
毎日水をやり続けて咲いた花は、簡単に踏み潰される。やっとの想いで実らせた果実は、収穫前に焼き払われる。
やぶれかぶれになる者の気持ちは、わからないでもない。私自身、そんな毎日をおくっているタイプだからだ。ただ私は、諦めないと型を決めているだけで。
『エヴァンゲリオン』の加持のスイカ畑と同じ。
該当箇所を全て貼り出したり引用したりせず、話を進めて、申し訳ないのだが。
カラスによる2度目の天地創造。
Crow Blacker than Ever 過去一黒いカラス。
彼の詩の中のカラスは、なかば無理やり、絶縁状態になった人と神とをつなぎとめようとする。しかし、付け焼き刃ではうまくいかず。天地のつなぎ目はきしみだし、腐って悪臭を放ちはじめる。
やはり、一発形勢逆転!などない。私たちは、地道な努力の積み重ねで、対抗するしかない。
生前、ヒューズはこう語っていた。
私は、詩を一種の動物だと考えている。詩には、動物のように、独自の生命がある。
それはつまり、どんな人間からも作者からも、全く切り離されているように見えるということだ。
そして、詩には、ある種の知恵がある。詩は、何か特別なことを知っている。私たちが非常に知りたがっている何かを、知っているのだ。
結局のところ。私の関心事は、詩でも動物でもなく、私以外の生き生きとした生命を持つものをとららえること。これだったのかもしれない。
フェミニズムおよびジェンダーの視点で、科学技術の進展を考察した学者ダナ・ハラウェイは、このように論じたことがある。
伝統的な静物画は、動物が生きていても死んでいても、容赦ない視覚的貪欲さで人間中心主義に貢献する。
どうやら彼女は、動物のはく製や毛皮のコートのようなものだけを批判したのでは、ないようだ。
個人的には、どっちの言いたいこともわかる。
ヒューズは、獣の鋭い目の先に、読者=人間を配置したのではないか。そのように思える。
私たちは、そのくもりなき眼に見据えられることで、石化する。
彼は、視覚的暴力のことなどわかった上で、その力学を反転させていたのではないか。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」どころではない。「深淵が常にこちらを見ていることに、我々は気づいてもいない」だ。
ニーチェと私でバトってみた笑。二ーチェの話は、また後ほどする。
23の好きなことは読書で、「本読むのおもしろい!」と喜ぶ。主人公の自作の詩も賞賛した。
この超・生命体を、無理やりにでも我がものにしようとする男が、モニター越しに23と対峙した時。全てを見通すような鋭い眼力、まるで神の目そのもの、と評した。
ヒューズの世界観は、「動物は見ることができる」というジャック・デリダの認識に、近いものだったのではないか。
デリダはユダヤ系フランス人。ポスト構造主義の代表的な哲学者であり、国際哲学コレージュの初代議長をつとめた人物だ。
動物にも顔はあるのか。
これは、動物に関する論議によく登場する、トピックの1つだ。デカルトやハイデガーなど、人間中心主義的(anthropocentric)ともいわれる西洋の思想家たちは、これに No.と答えるタイプだろう。あくまで、タイプとしては。
デリダは、動物は返答するのかについて、深く考えた。刺激に反応する(単純なリアクションをとる)のではなく、人間のようにだ。
彼がこのように考えはじめたきっかけは、飼い猫が、自分の裸をじっと見ることが頻繁にあったことだという。飼い猫は、自分の性器にまで視線を向けてきたと。
動物に見られるという経験から、「動物の前で我々は丸裸だ」ということに、気づいたのだ。
いや、実際に、素っ裸だったんだろうけど。
デリダ、おもしろいな……笑笑
人どおしなら、普通、言葉を “交わしてしまう”。よくよく考えてみれば、そのどれ程が、真実だというのか。
互いに見つめあうだけ。動物と動物のようにではない。彼ら彼女らどおしは、会話を交わしているのだから。
互いに見つめあうだけ。人と動物のように。
Face to Face している相手と、Eye to Eye もしているとは、限らない。体を重ねる相手と、心もつながっているとは、限らないように。
ロゴスという概念は、その主体に、動物を含めていないだろう。コギトも然り。そこに動物はいない。いるのは人間だけ。
ヒューズは、後戻りできない地点に達する前に、人間と動物(あるいは自然)がよい関係をもつようにと、提案している。
チベットに「バルド」という言葉がある。中間や途中、2つの状態の間などを意味する言葉だ。
ヒューズの著作のページ上では、人間と動物がからみあい、新種の生物が生まれているのかもしれない。
思考や感情は、言葉よりも先にある。それらを言葉で表現する時になってはじめて、自分が考えている・感じていることに気づくこともある。思考や感情の誕生日は、ハッキリとは、わからないのだ。
ヒューズは、詩とは、精力的でありながらもろい命であると言っていた。
故人に直接たずねることはできない。結局のところはわからないが。
さまざまな観点からひもといていくことで、彼の心が、少しだけわかったような気がする。
少なくとも、時系列的な事件の羅列からは見えてこなかったことが、見えた気はする。
部分か全体か、わからない。
生きているか死んでいるか、わからない。
自分しか知らない病みがあることが、なぜか、心地よい理由。それは、病みは自分にとって、同時に光でもあるからなのかもしれない。
ニーチェ「私は光なのだ。夜であればいいのに!この身が光を放ち、光をめぐらしているということ、これが私の孤独なのだ」
ちなみに。これは、ムンクが特に好んだ、彼の言葉だ。
しかし、ヒューズ「外の世界で見つけたものは、自分自身の内なる世界から逃れてきたものである」
あえて、ここに、ココロノツヨサ選手権の開催を宣言する✋ヒューズの、圧倒的勝利かもしれない。
ニーチェは、自分に政治的な力があると思うようになっていた。彼の反ドイツ感情は、頂点に達していた。
「私は王子たちにローマで会議を開くよう命じた」「若い皇帝が誰かに撃ち殺されるのが私の望みだ」などと、手紙の中に書いていた。
普段どおり、トリノの街を散歩していたニーチェ。激しくムチで打たれる老いた馬を見かけた。その馬の首にしがみつき号泣。失神。意識は回復したが、その後、彼の精神が正常に戻ることはなかった。
ぶっちゃけ、馬も困惑したと思う。え、待って、誰!?これ、私のせい!?と。これはまじめな話で。馬にはそのくらいの思考力がある。
イタリアの王やバチカンに、狂気の手紙を書いた。「今まさにわが王国を手中におさめた。これから教皇を投獄する。ヴィルヘルムやビスマルクやシュテッカーを銃殺する」
これは、私の率直な感想である。→ ぴえん
梅毒で、脳腫瘍で、という見方があるらしい。つまり、彼は心を病んだのではないと。何を言っているのか。そんなわけがあるまい。
私が二ーチェを嫌いなわけではない。
シャガールの話をする。
生涯、妻のベラを愛し続けたことが作品にも見られることから、「愛の画家」と呼ばれるとWiki にはあるが。
(まさか、私がそこに異論があるのではなく)
マルク・シャガールは、生涯、ヤギや馬に親近感を抱いていたということも、作品から見受けられる。
気になった人は、【 Chagall goat paintings 】などで画像検索して、一気見してほしい。
ヤギにバイオリンを弾かせたり、弾きながら女性のヌードを見上げさせたり (笑)、自分の胴体を馬の頭に変えたり……と。多くの例を確認できるだろう。
親近感の理由の前に、前提として。
シャガールは、東欧系ユダヤ人だ。
ユダヤ教を信仰する伝統的な家庭に生まれた、シャガールの両親は、子どもにも十戒を解いただろう。彼は、親からというよりも神から、いわれていた。自分のために偶像を彫刻してはならないーーと。
シャガールは、実際、このように言っていた。
画家という言葉は、とても奇妙で、とても豊かな文学的なもので、別の世界から飛んできたようだ。
シャガールの作品の中では、本人や妻を含む人間たちや動物たちが、よく空を飛んでいる。
この系統の話が好きな人にオススメな、関連回。シリーズものだが、別々に1個ずつ読んでも、完結するように書いてある。
昨今、人はがんばらなくていいのだという方向性が、1つのトレンドとしてある。断言するが、そんなのは、嘘っぱちだ。あなたにそう勧めた人は、一切の責任をとらない。何よりも。がんばらないことは、拍子抜けするほど、案外楽しくない。
一時休むのも。必ず、再起するために休め。
バイオリンは、ユダヤ教において、人生の重要な局面で使われる楽器。また、家畜は、人類の罪の浄化の犠牲者であるという位置づけ。
このあたりに、彼がヤギや馬にシンパシーを抱いていた原因の、一端がありそうだ。
さらに。シャガールは、ユダヤ教のハシディズム神秘主義を信奉していたそう。この一派(運動)の特徴の1つとして、神と一体化することを強調するというのがある。
一体化。彼の作品に、動物の擬人化が頻繁に見られることは、このあたりにも関係があるのかもしれない。
バイオリンを弾いている。どんな「重要な局面」がおとずれていたのか。魚の “翼” も口も赤い。『時とは岸辺のない川である』。何を止められなかったというのか。知るや知らずや幸せそうなカップル(右下に描かれる)の、運命や、如何に。
1930年~1939年の間に、シャガールは同様の作品を複数描いた。
1939年。第二次世界大戦が勃発した。
シャガールは、愛する妻のことを
「彼女の沈黙は私のものである。彼女の目は私のものである。彼女は私の子供時代・現在・未来をも知っている。彼女は、私の魂の最も深い部分を知覚している。彼女が私の運命である。私のもう片方である」
と述べていた。
そっか。運命は彼女か。わかったよ。
「互いの全てを知り尽くすまでが愛ならばいっそ永遠に眠ろうか」か。いいね。
2人のそばには、たいてい、花束がある。シャガールにとって、幸福のイメージの1つが、花束なのだろう。
これは、書くかどうか、最後まで悩んだ。
ニーチェをとても好んだムンクは、シャガールのことがあまり好きではなかった、という話がある。
本当かどうかわからない、わからないが。なんとなく、合点がいく気がする。
けどね、ムンク、あなたはきっとシャガールのことを誤解しているんだよ。私はそう思うよ。
人間と動物の関わりについて書くとしたにもかかわらず、人間と人間の関わりについて書いて、最後をしめくくってしまった。
人間もまた動物であるということで、許してほしい。
心から愛する人をもつことができたなら。たとえ一緒に生きれなくとも、どんな過酷な未来や運命が待ち構えていようとも。私たちは、人生を花束で終えることができるのだろうか?
「満開の花が似合いのカタストロフィー」と?
今日話した年上の人は
ひとりでも大丈夫だと言う
いぶかしげな私はまだ考えてる途中
花に名前を 星に願いを 私にあなたを