ヒップホップ:社会学と英語をビートに乗せたもの
タイトルの言葉は、私のものではなく、タリブ・クウェリからの引用。彼はMCで、本当に、社会学者の父親と言語学者の母親をもつ。
タリブは、アラビア語で「学ぶ人」や「探求者」。クウェリは、スワヒリ語で「真実」。
今回は、ヒップホップの起源の話。
最後まで読んで、真実を探求してほしい。
ヒップホップは音楽以上のもの。文化的な巨大ムーブメントである。
「ヒップホップ ラップ」とググると、「ヒップホップ ラップ 違い」というのが、日本語では上位に出てくるのだが。
KRS-One はこう言った。"Rap is something you do; Hip-hop is something you live."
社会派ラップの先駆者で、2パックやエミネムに影響を与えた。アメリカ社会の商業主義的(すぎる)側面に、批判的な立場をとる人。
『50 More Years of Hip-Hop』2023年は、ヒップホップ誕生50周年だった。
彼の格言をもっと読みたい人は、下のリンクから。
なぜ法律を破ってはいけないのかーーに対するアンサーなど、歌舞伎町の思春期の若者にささりそうな表現で、とてもよい。
日本最大の歓楽街(まさに不夜城)と、58ヘクタールの緑豊かな公園が、隣接して存在する。私は区民だ。この街をいい街にしたい。
新宿がいい街?と笑わないでほしい。私がしているのは、現実的な話なのだから。
今回の話を読めば、きっと、この意味もわかるだろう。
ヒップホップ・カルチャーは、4つの基本的要素から構成されている。
・DJとターンテーブリズム
・MCとラップ
・Bboyingとブレイキング
・ビジュアルとグラフィティーアート
ヒップホップとは何なのか。
あえて一言でいうと……
1970年代初頭に、ニューヨークのブロンクスで生まれた、サブカルチャー兼アート・ムーブメントである。
ブロンクスは、ニューヨーク市の最北端にある区。ヤンキー・スタジアムがあるところ。
ソーホーは、マンハッタン区の South of Houston などから。それを真似て、South of Bronx は、ソーブローなどとも呼ばれている。
ブロンクス区の話を進める前に、マンハッタン区の話をする。
『BANANA FISH』で。主人公アッシュが根城にし、ストリート・ギャングを統括しているのは、ダウン・タウン。チャイナ・タウンも、マンハッタン区内にある。
マフィアの手下になりきらないよう、請け負う仕事内容に一線をひくことを、仲間に徹底するボス。極めて知能の高い少年として描かれるキャラクターだが、彼の主張は、生物としても正しい。
喰われてはいけないどころか、Commensalism でも、関係をもつ意味がない。※相手が大きな暴力的犯罪組織である、この場合において。
『Gossip Girl』や『Sex and the City』のキャラクターたちの生活圏は、アッパー・イースト。アッパー・ウエストの方には、ユダヤ人も多く住む。
この両サイドにはさまれる形で、セントラル・パークがある。
撮影はNY市立博物館でされているが、GGのセリーナが通う学校のモデルは、ナイチンゲール・バンフォード校。原作者の母校だ。
生徒たちは、運転手・乳母・馬・金貨のコレクション・毎シーズン15足の新しい靴・特注のYSLの衣装などを保有し、それでも、恋に悩んだり・お肌の調子を気にしたりする「普通の女の子たち」だったと。彼女らは、遺産相続だけで生きていくつもりなどなく、各々に将来つきたい職業があったと。
原作者が伝えたいことは、このあたりにあるのだろう。たしかに。金持ちと一括りにするなどして、他人に、一方的で短絡的なイメージをもってはいけない。
舌の根も乾かぬうちに、こんなことを書いて、申し訳ない。
大金持ちは、下働きをしてくれる人間をより欲する傾向がある。高級住宅地からそう遠くない距離に、低所得者層が住むエリアが生まれる場合、こういった原因がある。(通勤圏内)
頂点捕食者どおしも、なわばり争いをする。
彼ら↓は、元からぜんぜん下層階級じゃない。
いつヒップホップの話はじまるの?
もうとっくにはじまっている。
1970年代のアメリカには、絶望と希望が、入りまじっていた。
ベトナム戦争の戦後処理、石油ショック、インフレ、景気後退、失業率の上昇(数年間平均7.5%の失業率で9%になったことも)、ウォーターゲート事件に代表される政治不信、からのロッキード事件。
ニューヨークはもう立ち直れない、とまで思われたことも。
ところが。マンハッタンでは建設ブームが起こり、超高層ビルが人気に。
ウーマン・リブ運動(第2波フェミニズムの最盛期)や、エコロジー意識の芽生えや、マイノリティー文化の発展も。
映画界では、1972年に『ゴッド・ファーザー』、1976年に『ロッキー』、1977年に『スター・ウォーズ』が生まれた。豊作だった。
1977年には、ウェスト・コースト・コンピューター・フェアーで、「Apple II」が発表された。
もう少し、ジョブズの話をしよう。
彼は、個人でも、コンピューターを家電製品のように所有できることを示した。
「当時の他のコンピューターは、1920年代に自家用車を持つようなもので、自分で整備方法を知っている必要があった。しかし、Apple II は、本当に家電製品のようだった」
この感じの彼を賞賛する人の中に、イーロンとテスラには批判的な人がいるとする。いると思う。私的には、それは合点がいかない。
リード大学は自由を重んじる校風で、ヒッピー的な学生たちであふれていた。
必修だからと興味のない科目に時間を使いたくない、そう言って、半年で退学したジョブズ。親に負担をかけたくないという思いはありつつも、州の住民は学費が割安になる州立大学や、奨学金が出る大学(スタンフォード大など)に入ることも拒否。
結局、リード大で、哲学やカリグラフィーなど興味のある授業だけを聴講。
ジョブズ「スタンフォードに行くのは、自分のしたいことがわかっている学生だろ。そんなものはアートじゃない」
彼は、ユダヤ教にもキリスト教にもイスラム教にもアニミズムにも、関心があった。音楽も大好きだった。鈴木俊隆(しんりゅう)からは、禅を学んだ。
ヒップホップの話と彼の人生の話は、けっこう親和性がある。
このように、一概に、暗い時代だったとはいえないのだが。
経済状況と治安の悪化(事実上の暮らしにくさ)には耐えられず、主に中産階級の白人層が、ニューヨークから郊外や他の都市に移住していった。数にして、100万人の人口流出だった。
スーパー・リッチ層は動かない。自らと下界を隔離した “高い塔の上や山のてっぺん” に住めばよいのだから。それを可能にする力をもっている。絶対にニューヨークに住む必要がある仕事についているだとか、ニューヨーカーでいたいだとかも、理由として考えられる。
同じことが、ロスでも見られるだろう。ずっとそんなことを続けられるかどうかは、さておき。
今、私は、社会にある1つの傾向の話をしただけで。NYとLAは同じじゃない。この動画で、笑いながら、ニュアンスを感じとって。
しょせん自宅の真横に引越してはこない移民の受け入れに、必死になって反対したりしない。
移民の増加に本格的に反対するのは、職場で椅子とりゲームをするはめになる人たちだ。
先述したように。上流階級がとどまれば、低所得者層もとどまる。マンガやドラマの話は、このことがわかりやすいように、出していたのもある。
こんなふうに言いたくはないが。わかる?
しまいには、支配者と奴隷だけが残るの。
余談
米国が、トイレ掃除のできるロボットの開発(一例として)を急ぐのは、このことと関連があるのでは?という意見は、正しい。
ブロンクス地区でいうと、10年間で3割の人口減少があった。
もし、1955年にクロス・ブロンクス・エクスプレスウェイ(ブロンクスを通る州間高速道路)が開通していなかったら、ここまで大きな移動はなかったかもしれない。
ともあれ、こうして、人口動態は変化した。
アフリカ系アメリカ人・プエルトリコ人・カリブ系移民が多く住む地域というものが、確立されていった。
〇〇民族大移動のレベルから、このレベルまで。規模の差があっても、このことが変わらないのは、個人的に大変興味深いことである。→ 人が動くと歴史が動くのだ。当たり前のことに、むしろ、ハッとさせられる。
ブロンクス区の大家らが所有権を放棄した建物は、老朽化した。空き家は犯罪に利用されやすい。マフィアによるヘロインなどの密売が、横行した。スーパーマーケットは、略奪者によって破壊された。大停電が起こったある夏の日などは、記録的な数の略奪が起こった。
人に金を渡し、わざと放火してもらうことで、建物の保険金を稼ごうとした持ち主もいたという。本当かどうかわからないが。実際、狭い区域で1晩に、複数の火事が起こっていた。
1970年~80年の間に、地区内の建築物の95%が、使い物にならなくなった。
政府は何の対策も講じず。警察などの機関はまともに機能せず。
ブロンクスは、行政に見捨てられた地区と呼ばれた。都市荒廃の象徴とされた。
このあたりは、シチリア・マフィアが育っていった背景と、類似性がある。千差万別だけが真実ではない。世界にはパターンがある(因果関係のパターン)と感じる瞬間だ。
リンクは、当時の様子がわかる動画。
大停電の間に連続殺人犯が出て、大騒ぎになったらしい。後で書く「ブラック・スペード」というギャングの、実際の映像も、この中に出てくる。
どこでもそうだが。生まれた土地から、逃げ出すこともできないという人たちは、必ず存在する。
草下さんのインタビュー記事を拝借。短い広告を見れば無料で読めた。学びのある内容。
地元から「新しい宿り木」に飛んできた少女達たちが、ループから抜け出せますように。
もう流行っていないのかもしれないが、羽のついたリュックを思い浮かべながら……
燃えるブロンクス。
住民の中に、この業火を生き延びよう・この土地を再生させようとした人たちがいた。
廃墟と化したビルや駐車場は、「ブロック・パーティー」の舞台となった。
ブロック = 街区。コミュニティー(そのブロックの住人)の集まりでは、常に、音楽が流された。
DJとMCのような役割をになった人たちが、コミュニティーに、さらなる一体感をもたらした。
ブロック・パーティーで発明され鍛え上げられた、彼らのコンビネーション。これが、DJとMCの起源 = ヒップホップ・ミュージックの起源の1つだったのだ。
コミュニティで生まれ、コミュニティへ還元されること。最初期のヒップホップとは、曲や作品というよりも、行為そのものだった。
やがて、しきつめられた段ボールは、ダンス・フロアーになり。レンガの壁は、グラフィティーのキャンバスになっていった。
アフリカ・バンバータ(現在66才)
「同じスラム内で、同じ苦しみを味わう人たちが、血を流しあうのは間違っている 。争うのであれば、文化で争えばいい」
彼は、DJとして活動しながら、この考え方をブロンクスの住人に広めていった。
「ユニバーサル・ズールー・ネイションズ」は、ヒップホップの開祖の1人であるバンバータが結成した、非暴力組織である。
彼は、「ブラック・スペード」というギャングの、元リーダー。一度、旅行でアフリカをおとずれた。その時のさまざまな体験が、彼を変えた。ブラック・スペードは平和的な組織に。こうして生まれたのが、ZULU だ。
1973年のこと。バンバータは、DJ・MC・ダンス・グラフィティーの4大要素を総じて、「ヒップホップ」と命名した。
今のバンバータが見れる動画(と言っても10年ほど前か)。
ヒップホップの父と紹介されている。いい天気の中、みんな笑顔で踊ってる。
彼と、DJ クール・ハークと、グランドマスター・フラッシュ。この3人で、ヒップホップの「三位一体」と呼ばれている。
DJ クール・ハーク(現在68才)
彼は、ジャマイカの音楽文化や技術とともにアメリカへ渡ってきた、移民だった。
彼がブロンクスで開いた「Back to School Jam」という伝説的なパーティーが、ヒップホップ・ムーブメントを本格的に始動させた、といわれている。
ハークの技術 = ブレイクビート・ターンテーブリズムは、ヒップホップ・ミュージックの拡散、ラップとブレイク・ダンスの台頭に、多大な影響を与えた。
ブレイク・ビーツの解説は、他力本願で!音楽人から聞いた方が、絶対にいいのだから。
ハークは、彼の音楽で踊る人々を、B-Boys・B-Girls と名付けた。Break-Boys・Break-Girlsの略だ。
動画は、ブレイキング・ダンス世界選手権2023。
彼は、観客を盛り上げるために、リズムと韻を踏んで話した。これは、ジャマイカで乾杯をする時のかけ声 (?) を真似たものだった。
ラップの起源、乾杯の音頭だったの!?
今のハークが見れる動画。
仕事も無ぇ娯楽も無ぇ状態で、やることのなかった若者のために、パーティーを開いたのだと。東京さ行くだもないもんな。ニューヨーク在住なのだから。
グランドマスター・フラッシュ(現在66才)
彼は、ビートを “永遠に” ループさせる方法をあみだした。バックスピン、カッティング、スクラッチなどのテクニックも、彼が考案した。
幼少期から電気系統や工作に興味があり、工業系の専門学校に通っていた。なるほど、ターン・テーブルを研究したのか。
貧民街における若者の苦難をラップにした『The Message』(1982年) は、社会問題をラップで表現した、最初の曲といわれている。これがヒットした。
「私は、あの激動の時代を記録しなかった。今にして思えば、自分のパーティーの様子を少しぐらい撮っておけばよかった。だから、電話がかかってきてうれしかった。再現ドラマをつくりたいから、当時の状況を教えてくれという電話だ。つい、長々と思い出話をした」
今の彼が見れる動画。
このネトフリのドラマが観てみたくなった人は、ぜひ。2016年の作品。
当時は、音楽がサンプリングされることが、著作権法で保護されていなかった。
アーティストたちは、法的なトラブルなしに、さまざまなソースからサンプルを使用することができた。ジャズからロックまで。
自由に混ざりあっていたのだな。いろいろと、考えさせられるものがある。
ヒップホップは、怒りや暴力を怒りや暴力のままにさせないための、他のエネルギーに変換するための、手段なのである。
さらに、ヒップホップは、一時的なはけ口にあらず。
暗いトンネルから抜け出して、光を感じられる世界へと向かうための、出口なのである。
今日にいたるまで、ヒップホップは、世界中に影響を与え続けてきた。
広義でヒップホップ、細かくジャンルわけすると、100を越えるカテゴリーがあるという。世界でよく聴かれているアーティストの内、95,000人以上が、ヒップホッパーもしくはラッパーなのだそう。
苦悩の数だけ、そこから抜け出したいという願望もあるーーか。
Why is it so hard for people to believe that white people are poor? I wouldn’t say I lived in a ghetto, I’d say I lived in the hood. The same friends I had back then are the same people on tour with me now.
なぜ、白人にも貧しい者がいるということは、こんなにも信じてもらえないのだろう。それでも俺は、ゲットーに住んでいたとは言わない。俺が住んでいたのは「地元」だ。今も、俺のツアーで一緒にいるのは、あの頃と同じ仲間だ。
ゲットー:大都市における、マイノリティーの密集居住地
ヒップホップで hood という場合、地元を表すのだが。エミネムは(他のラッパーさんもか)、ニット帽とフードの両方をかぶっているイメージがある。
私は、エミネムなら、この曲が好きだ。コラボものだが。聴いただけで、1本映画を観たような、そんな感覚がする。
彼が(彼ら彼女らが)諦めずに努力してくれたことに、感謝したい。いい作品を届けてくれて、ありがとう。
私たちもがんばるよ。
以前書いた、類似テーマの別カテゴリーもの。
これも今回の関連回といっていいかも。